俗説の真相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 20:26 UTC 版)
補給線は遮断されていない 従来、日本軍の補給不足を李舜臣の補給路遮断によるものと解釈されることが多かったが、補給不全が生じていたのは内陸部に進出した部隊に対してであって、全戦役を通じて九州から釜山までの海路における物資や人の流通が決定的な補給不全を起していたことはなく、したがって日本軍の補給路が李舜臣率いる朝鮮水軍によって「遮断された」と解釈するのは誤りとする見解が近年優勢となっている。日本軍の食糧不足の主な原因として、緒戦の朝鮮軍が想像以上に弱体であったため、一挙にほぼ全土を占領したため補給線が伸び切ったこと、和戦の曖昧な侵攻による食料の準備不足、日本側が食糧の現地調達を想定していたが、当時の朝鮮半島はかなりの食糧不足であったことなどが挙げられている。そして、これらは1593年からの日本本土からの補給作戦の開始と主力軍の朝鮮南部撤退によって解消されており、準備を整えた慶長の役の侵攻作戦では補給の破綻は起きていない。 詳細は「文禄・慶長の役#日本軍の補給」を参照 亀甲船は昔からあった しばしば「李舜臣は亀甲船の考案者であった」という説明がされることがあるがこれは定説とは言えない。亀甲船の現地名である「亀船」に関する記述はすでに15世紀のものに見られる。また文献には朝鮮水軍は亀甲船を5隻保有していたとあるが、基本的に主力艦は板屋船であって、亀甲船がどういうもので、どのように運用され、どういう戦果を挙げたのか、不明な点が多い。また李舜臣は亀甲船を改良したという説もあるが、もともとがどういうものであったか、どう改良したのかわかるような資料は存在せず、根拠のある説明をすることはできない。 東郷平八郎の発言 「東郷平八郎が李舜臣を尊敬すると発言した」とする言説については、東郷が公の場でそのような発言をしたという記録はなく、現在のところ東郷と知己であったという韓国人実業家李英介の発言を第三者が聴取した伝聞以外の記述は見い出すことが出来ない。このため史料と呼べるものはなく、東郷にまつわる歴史点描としては伝聞・風説の域を出ない。日本海軍が海軍権益拡大(軍艦建造と組織の拡大)のため李舜臣を引き合いに出して朝鮮出兵の敗因として宣伝したり、内鮮融和のプロパガンダ、戦後独立した韓国・北朝鮮で抗日のシンボルとして利用されたことにも留意する必要がある。 忠烈祠の八賜品は偽物 慶尚南道統営の忠烈祠にある都督印・令牌など8つの品を指す八賜品は、明の万暦帝が李舜臣の武功をたたえて下賜したものと言われていたが、韓瑞大学文化財保存学科教授のチャン・ギョンヒの研究によって、これらは後代に新しく作られた偽物であることが明らかになった。
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