組織の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 02:27 UTC 版)
翌建武元年(1334年)秋には雑訴決断所はさらに拡大し、八番制107名の大規模な組織となった(『続群書類従』雑部に所収の「雑訴決断所結番交名」より。構成員は後掲)。これはそれまで2道を受け持っていた各番を分割し、それぞれ1道を担当するようにしたためである。一番が畿内、二番が東海道、三番が東山道、四番が北陸道、五番が山陰道、六番が山陽道、七番が南海道、八番が西海道を担当した。 公家では中原氏・小槻氏・坂上氏など明法道や紀伝道・算道等に携わった朝廷の中流実務官僚から、武家では二階堂氏や飯尾(三善)氏などの鎌倉幕府奉行人や、太田・町野氏ら問注所執事であった家からの採用が多く、前時代の訴訟慣例や事務手続きを継続しようとしていたことが伺える。実際、南北朝期を扱った歴史書『梅松論』によれば、雑訴決断所は「決断所と号て、新に造らる、是は先代(鎌倉幕府)引付の沙汰のたつ所也」と評価されている。すなわち鎌倉幕府体制における引付衆と同様の存在として見なされていた。また中には楠木正成・名和長年のような元弘の変の勲功武士、六角時信・京極道誉のような守護クラスの在地武士、高師直・師泰のような足利家被官も含まれており、「才学優長ノ卿相・雲客・紀伝・明法・外記・官人」(『太平記』)を寄せ集めた公武折衷的な組織であった。また、のちに『建武式目』を起草することになる法学者、中原氏出身の是円坊道昭・真恵兄弟は、法体のまま出仕している。 このような組織の拡大やそれに伴う無原則な人材起用により、必ずしも訴訟事務が効率的になったとはいえず、かえって各出身母体の利害が衝突する可能性もあった。そのため、雑訴決断所は建武の新政を揶揄した二条河原の落書でも、「器用ノ堪否沙汰モナク、漏ルル人ナキ決断所」と皮肉られている。
※この「組織の拡大」の解説は、「雑訴決断所」の解説の一部です。
「組織の拡大」を含む「雑訴決断所」の記事については、「雑訴決断所」の概要を参照ください。
組織の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 03:49 UTC 版)
各地で次々と地域単位の組織が結成されていった。1950年8月6日、京都勤労者音楽協議会第1回例会。1952年に発足した横浜労音は1954年には1万人を越える組織となった。 1953年、東京労音結成。 1954年、姫路労音が姫路音楽文化協会を母体に、全国で11番目の労音として発足。 1955年10月15日〜10月17日、芥川也寸志指揮・東京交響楽団の両国国際スタジアムでのあわせて4公演(東京労音主催)で、のべ4万人近くを動員した。 1955年、第1回全国労音連絡会議が開催(地域労音20、会員数13万人となる)。 1956年3月、金沢市に金沢労音が発足。 1956年11月、福井市に福井労音が誕生。 1957年9月、函館労音が結成。 1959年、77労音、会員32万人、1965年には192労音、会員65万人を超す巨大組織に成長。
※この「組織の拡大」の解説は、「勤労者音楽協議会」の解説の一部です。
「組織の拡大」を含む「勤労者音楽協議会」の記事については、「勤労者音楽協議会」の概要を参照ください。
- 組織の拡大のページへのリンク