組織の戦略と展開
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レヒの戦闘員の多くは専門の訓練を受けており、一部にはベニート・ムッソリーニのファシズム政府が運営するチヴィタヴェッキアの軍人養成学校に参加していたメンバーもいた。 第二次世界大戦が始まる前の1938年から1939年にかけて、レヒのメンバーの一部はポーランド軍の指導の下、ヴォウィーニ(波: Wołyń)のゾフュフカ(波: Zofiówka)や、ウッチ(波: Łódź)近郊のポデンビン(波: Podębin)、アンドリフフ(波: Andrychów)周辺の森で、軍事訓練を行い、爆薬の使い方を学んだ。彼らのうちの一人は後にこう語っている。 「ポーランド人はテロリズムを科学として扱っていました。我々はコンクリート、鉄、木、レンガ、あるいは土でできた建物を破壊するための数理を用いた法則を習得していました。」 その後、ポーランド政府はレヒのメンバーに20,000丁以上の銃をひそかに持たせ、ポーランドの空路と海路を使ってパレスチナへ向かうことを許可した。 グループの黎明期は失敗が続いた。犯罪行為で資金を集める初期の試みは、1940年のテルアヴィヴでの銀行強盗や、1942年1月9日の強盗ではユダヤ人通行人2人を死亡させ、組織の一時的な壊滅をもたらした。さらに、ロードでイギリス秘密警察の上層を暗殺する作戦は、3人の警察官(うち2人がユダヤ人、1人がイギリス人)が死亡することとなり、イギリス当局とユダヤ中央機関による地下組織を一掃するための協力体制を生み出す結果となった。 イギリス当局はシュテルンのグループをテロリスト組織と見なし、イギリス情報局保安部(MI5)の植民地支部である防衛警備局(Defence Security Office)に、その指導者を探し出すよう指示した。そして1942年、拘束されたシュテルンは帝国防衛委員(Committee of Imperial Defence)のジェフリー・モートン警部に射殺された。また、他のメンバーの逮捕によりグループはいったん消滅しかけるが、指導者のうちの二人であるイツハク・シャミルとエリヤフ・ギラディ(後にレヒのメンバーに暗殺される。理由は現在も不明とされる。)が、すでに脱獄していたナタン(フリードマン)・イェリン=モル(ヘブライ: נתן ילין-מור)とイスラエル・エルダド(イスラエル・シャイブ、ヘブライ: ישראל אלדד)の助けによって脱走し、組織を再興させた。 後のイスラエル首相となるシャミルは「マイケル」のコードネームで知られた。この名は彼の尊敬する人物たちの一人、マイケル・コリンズから取られた。レヒはウリ・ツヴィ・グリンベルグ(英: Uri Zvi Greenberg、ヘブライ: אורי צבי גרינברג)やイスラエル・エルダードらを精神的、哲学的指導者とした。レヒは委任統治時代に存在したどの武装グループよりもはるかに小規模で、支持者も決して多くはなかったため、他の多くのユダヤ人からも見下されていた。ギラディの暗殺後、組織はエルダド、シャミル、イェン=モルをリーダーとする三頭体制となった。 レヒは反帝国主義の非社会主義的思想を採用していた。彼らはイギリス委任統治が続くことを委任統治の一般的な条項に違反するとみなし、ユダヤ移民の制約については国際法の有り余る侵害とみなした。しかし、彼らは裏切り者と断じたユダヤ人も標的にし、イギリス委任統治の終わり頃にはデイル・ヤシーン事件などのアラブ人を狙った作戦にハガナーやイルグンとともに参加した。 ナハマン・ベン=イェフダ(ヘブライ大学の元社会学部、人類学部学長)の著書によると、レヒは合計42件の暗殺事件に関わっており、これは同時期のイルグンやハガナーの起こした事件を合わせた数の2倍以上になる。この中でベン=イェフダが政治的と分類した暗殺での被害者は、半数以上がユダヤ人だった。 レヒはユダヤ中央機関当局や、その関連機構にも相容れず、その実体においてほぼ全ての行動を単独でこなした。 イギリスに逮捕されたレヒの囚人のほとんどは裁判の際に弁護人を付ける事を拒み、支配権の象徴であるイギリス人の裁判官には自分達を裁く司法権はなく、それ故に裁判は違法であるとする陳述内容を読み上げるのみだったという。同じ理由で彼らは、大赦の申し出も拒み、それで死刑を免れることが明らかだったとしても応じなかった。レヒのモシェ・バラザニー(英: Moshe Barazani、ヘブライ: משה ברזני)やイルグンのマイア・ファインシュタイン(英: Meir Feinstein、ヘブライ: מאיר פיינשטיין)の場合は、イギリス当局による処刑を免れるため、オレンジの箱に隠した手榴弾を使って留置場内で自爆した。
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