南部撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 10:13 UTC 版)
その後、第32軍は八原の既定方針である戦略持久作戦を徹底し、首里防衛線でアメリカ軍に激しく抵抗しシュガーローフの戦いなどで連合軍に多大な損害を与えていた。しかし、総攻撃失敗の影響は大きく日本軍の防衛線もあちこちが破られていた。5月中旬には、沖縄戦当初より常に最前線で戦ってきた第62師団の第64旅団は、有川旅団長自ら白兵戦を戦うほど壊滅状態となりながらも、藤岡師団長の死守命令を忠実に守り、陣地内で玉砕する覚悟を決めていたが、陣地の死守は無益な殺生と感じた牛島は第64旅団に撤退命令を出し、第64旅団は全滅寸前で首里市内に撤退し、新たに布陣することができた。 5月21日に首里防衛線の要である運玉森(ウンタマムイ、義賊運玉義留の拠点とされている小山)がアメリカ軍の手に堕ちると、首里の複郭陣地に立て籠もっている第32軍全軍が包囲される危険性が高まった。第32軍は、このまま首里の複郭陣地に全軍立て籠もって最後の抵抗をするか、更に南部に撤退して知念半島か喜屋武[要曖昧さ回避]に立て籠もって持久戦を続けるかの判断を迫られることとなった。第32軍参謀と、各部隊指揮官らが集まり軍の方針を決める会議が開かれ、第62師団の藤岡師団長らはこのまま首里での玉砕を主張したが、八原は、首里陣地内に未だ生存している50,000名の兵士がひしめくこととなれば、戦う前にアメリカ軍の砲爆撃の格好の目標となってしまうこと、日本軍の大きな戦力となっている重砲隊を配置する場所がないという分析から、第24師団が備蓄していた弾薬・物資が豊富で、多くの天然の洞窟があり持久戦を行うには一番条件がいい喜屋武の撤退を主張した。 会議は八原が主導し、喜屋武撤退案が会議の結論となった。八原は総攻撃失敗以降は八原の言いなりとなっていた参謀長の長の同意を得ると、そのまま牛島に直接撤退案を上申し決裁を受けた。牛島も一度八原に作戦を一任すると言った以上、その言葉を取り消すことはできなかった。5月27日に、第32軍司令部が置かれていた首里を放棄し、5月30日南部の摩文仁に司令部を移動したが、この際に沖縄県民も日本軍と共に南部に逃れ、多くが戦闘に巻き込まれて多大な犠牲者を生んだ。このことに関して、八原参謀の提案とはいえ、県民のことを深く考慮せずに司令部の南部撤退に踏み切った牛島の判断は誤っていたのではないかと批判もいまだに強い。第32軍は撤退決定後7日も経った5月29日になってようやく、第24師団と沖縄県の住民対策の会議の席で、県知事の島田に「戦場外になると思われる知念半島に、住民を避難させよ」と指示している。しかし、この頃には連合軍は第32軍の撤退を認識し、激しい追撃を開始しており、住民が知念に避難する道は閉ざされていた。少なくとも牛島が南部撤退決定後まもなくこの指示を出し、沖縄県が強力に知念半島への住民避難を行っていれば、沖縄県民の死者はもっと少なかったものと思われる。 牛島は南部撤退の際に、知念半島に独立混成第44旅団が備蓄していた食糧・物資を避難民に開放する命令を下しており、第32軍は荒井退造沖縄県警察刑務部長らに実行の指令を出していたが、荒井らにこれを実現する術はなく十分に避難民に軍の物資が行き渡ることはなかった。その後島田と荒井は6月7日前後に牛島のもとに訪れている。島田らはお別れのつもりだったが、アメリカ軍上陸後は住民保護の件で対立することの多かった牛島ら第32軍司令部と島田・荒井らの沖縄の行政の責任者は、沖縄戦前は宴会で共に童謡を歌い踊るなど親しくしており、牛島は憔悴しきっていた島田らに「貴方らは文官だからここで死ぬことはない」という言葉をかけている。しかし、6月26日に殉職した島田と荒井を含む沖縄県民の犠牲者の60%が集中したのもこの南部撤退後となっており、牛島に南部撤退案を進言した中心人物となった八原は戦後に「多くの老幼婦女子をいたましい犠牲としたのは実に千秋の恨事である」と悔やんでいる。
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