日米両軍司令官の戦死と自決
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「沖縄戦」の記事における「日米両軍司令官の戦死と自決」の解説
5月25日に、それまで海軍連合艦隊の指揮下で沖縄方面で航空作戦を行ってきた陸軍第6航空軍は、連合艦隊の指揮下を脱した。その後6月9日をもって沖縄での主作戦を打ち切り、物資投下などの支援のみを行う事となった。陸軍機は喜屋武陣地上空に毎日のように単機〜数機飛来し、第32軍が要望していた対戦車爆雷の資材と15センチ榴弾の砲弾などを投下していったが第32軍の手に届く量は微々たるものだった。しかしかすかな希望を断続的に第32軍将兵に与える効果はあったという。 6月5日、アメリカ軍第24軍団が日本軍南部防衛線全線に渡って攻撃してきた。それを迎え撃つ日本軍は数は30,000名以上いたものの、正規の歩兵戦力はその内の11,000名に過ぎず、残りは火砲を失った砲兵や通信・整備・設営隊等の支援部隊や沖縄現地召集の防衛隊などであった。日本軍は戦力不足ながら防衛線各所で善戦し、アメリカ軍を何度も撃退した。八重瀬岳を守備する独立混成第44旅団は、6月12日までアメリカ軍2個師団を3日間にわたり足止めし、13日に総攻撃を受け主力は壊滅したが、周囲の洞穴には多数の残存兵がおり、掃討戦が続けられた。 西側の戦線の国吉戦線では、歩兵第32連隊(連隊長北郷格郎大佐)以下1,500名前後の守備隊が、隣接する眞榮里高地を守備する歩兵第22連隊(連隊長吉田勝大佐)と共に、海兵師団相手に17日まで同丘陵地域を死守している。丘陵からの激しい射撃により、海兵隊に死傷者が続出13日には140名が死傷し撃退されている。丘の上では戦車の支援なしには立つこともできないぐらいの激しい日本軍の攻撃だったが、その戦車も速射砲で攻撃され、5日間で21両もの戦車が撃破された。それでも、アメリカ軍は1両の戦車に歩兵6名と弾薬を積み前線に送りこむ一方で、帰路に死傷者を積んで帰ってくるという強行で攻め続け、激戦の結果、17日には「馬乗り攻撃」で眞榮里高地の歩兵第22連隊の司令部陣地を爆破、吉田連隊長が戦死、第32連隊第2大隊も残存兵力26名で大隊長以下突撃し全滅、5日間に渡る激戦の末に丘陵は制圧された。この間のアメリカ軍の死傷者は1,050名と大きいものになった。 アメリカ軍は日本兵や住民に対してビラ800万枚を撒いて投降を促した。バックナー司令官自らも牛島司令官宛に親書で降伏勧告を行ったが、6月17日に親書を受け取った牛島は一笑に付して拒絶した。 降伏勧告を牛島に送ったバックナーは、翌6月18日、喜屋武半島の最前線視察に出向いた。途中で第6海兵師団第22海兵連隊長のハロルド・ロバーツ大佐より「これより前線へはいかれぬよう。第96歩兵師団の前面の日本軍陣地から、かなりの側射弾がとんできますから」との忠告を受けたが、バックナーはそれを無視してさらに前線に進んだ。ロバーツはバックナーに忠告した1時間後に自らも日本軍の狙撃で戦死した。バックナーは第2海兵師団第8海兵連隊が戦う最前線に到達し、珊瑚礁の岩の隙間から戦闘の様子を眺めていたが、バックナーを発見した日本軍から攻撃を受け、まずは一式機動四十七粍速射砲が近くの岩に着弾、その後、砲弾数発が着弾しそのうちの1発の炸裂で吹き上げられた破片がバックナーの胸を抉った。バックナーはその10分後に牛島への降伏勧告の回答を聞くこともなく戦死した。このバックナーを倒した砲弾はアメリカ陸軍の公式記録上では『 Dual-purpose gun(英語版)』(両用砲)の砲弾とされ口径までは特定されていないが、アメリカ海兵隊の公式記録では一式機動四十七粍速射砲の砲弾とされ、バックナーの付近にいたハバード補佐官ら2名が負傷しなかったことからも、小口径の砲弾との見做されて、アメリカの資料では海兵隊の記録と同様に47㎜とされていることが多い。日本側では、2002年に野戦重砲兵第1連隊第2大隊の元中隊長が長年の沈黙を破り、自分の指揮による九六式十五糎榴弾砲の砲撃だったと証言している。他方、日本側には東京都出身の「小野一等兵」が小銃で狙撃したという証言もあるが、厚生省によると該当する兵士の存在は確認されていない。バックナーは第二次世界大戦中アメリカ軍で敵の攻撃で戦死した最高位の軍人となった。日本側にとって将官クラスの敵軍部隊最高指揮官を死亡させる大戦果であったものの、アメリカ軍有利の状況には変化はなかった。奇しくも、バックナーの戦死により、沖縄戦開始前に飛行機で事故死したミラード.F.ハーモン中将と、沖縄優先攻略を主張した司令官クラスの2名の中将がいずれも沖縄戦の終結を目にすることはできなかった。 バックナーが戦死した6月18日には、第32軍司令部と各部隊との通信が途絶し、軍としての組織的戦闘が不可能となっており、第32軍司令部は最後の命令を下達している。命令文は長野参謀が起案したが、長が「諸士よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」の一項を付け加え、牛島が黙って署名している。その後に大本営と第10方面軍に訣別電報を送った。また、訣別電報には辞世が添えらていた。 秋待たで枯れゆく島の青草は 皇国の春に甦らなむ矢弾つき天地染めて散るとても 魂かえり魂かえりつつ皇国護らん — 牛島満 醜敵停滞南西地 飛機覆空艦圧海敢闘九旬一夢中 万骨枯尽走天外 — 長勇 バックナーの死の情報を第32軍が知ったのは、第32軍の訣別電報に対し、大本営から返電された参謀総長・陸軍大臣連名の訣別電報で「第32軍が人格高潔な牛島将軍の下、勇戦敢闘実に3か月、敵の首将シモン・バックナーを斃し、その麾下8個師団に痛撃を与え・・・貴軍の奮闘により、今や本土決戦の準備は完整せり。敵もし本土に侵寇せば、誓って仇敵を撃滅し、貴軍将兵の忠誠に対えん」というものであった。 長と八原ら参謀は、まるで沖縄戦に勝利したかのように錯覚するほどの喜びを覚えたが、八原が牛島を見ると、参謀らの狂喜を当惑した表情で見ており、敵将の死を悼んでいるようであった。八原はその牛島の様子を見て、牛島の人柄を再認識し自分も襟を正す気持ちになったという。 アメリカ第10軍の指揮は、第3水陸両用軍団長のロイ・S・ガイガー海兵中将(少将より昇進)が司令官代理を務め、同月23日にはジョセフ・W・スティルウェル大将が後任司令官となった。また、翌日には第96師団副師団長クラウディウス・M・イーズリー准将(英語版)も日本軍の機銃掃射を頭部に受けて戦死している。イーズリーはレイテの戦いでも日本兵の狙撃で負傷してパープルハート章を授与されていたが、続く沖縄戦では戦死することになった。 日本軍の戦線崩壊は次第に進み、喜屋武地区を守備していた、軍主力の第24師団も、既に師団としての組織的抵抗が不能な状態となっていた。この頃になると、日本軍では野戦病院で横たわる治療の術のない多数の傷病兵に、毒薬を注射したり青酸カリを配布して自決を促したり、動ける兵も、アメリカ軍に追い詰められると、手榴弾で自決することを選び、一日4,000名の兵士が亡くなっていた。沖縄戦での日本軍の戦死者のうちで実に47%が6月の1か月間で戦死している。 また、軍と行動を共にしていたひめゆり部隊も、6月19日に陸軍野戦病院の地下壕でアメリカ兵から投げ込まれた黄燐手榴弾と火炎放射器で多数が死亡、生き残った女生徒の一部も、6月22日にアメリカ軍の捕虜となれば暴行や拷問を受けると考えて、断崖から身を投げており、ひめゆり部隊の女生徒の犠牲者は125名にもなった。軍の組織崩壊も始まり、今までほとんど見られなかった集団投降も増えてきた。6月20日に摩文仁岳東端を占領したアメリカ軍第32歩兵連隊は977名もの大量の日本兵を捕虜にした。 6月23日午前4時ごろ(6月20日、6月22日との説もある)、日本の沖縄守備軍最高指揮官牛島と参謀長の長が、摩文仁の軍司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。24日頃には基幹部隊であった歩兵第22・第89連隊は、軍旗を奉焼し玉砕(全滅)。大本営も、6月22日の菊水十号作戦をもって菊水作戦を終了し、6月25日に沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表した。第32軍司令部の自決を知ったアメリカ軍は、第10軍の各軍団長や師団長・幕僚が整列し、軍楽隊が「星条旗よ永遠なれ」を奏でる中、星条旗をポールに高く掲げる戦勝のセレモニーを行っている。 アメリカ軍からは軍事的視点で「見事に首里を撤退し、時をうつさず南部に新たな戦線を確立した」「アメリカ軍が全力をあげて集中攻撃を加えても、戦闘を終わらすまでに三週間以上を要したのである。」と評価された第32軍の南部撤退であったが、戦火を逃れて南部に避難していた大量の住民との軍民の混交を招き、住民の犠牲を激増させる要因になり、沖縄戦における住民の戦没者全体の6割が、第32軍が南部撤退した6月以降に南部地域において亡くなっている。
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