集団投降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)
日本軍がいなかった避難壕では、集団投降した例も多い。アメリカ軍が上陸後すぐに進攻した中城村では日本軍が4月2日には撤退してしまい住民だけが残されたが、島袋地区では4月3日に1500人が集団投降して地区住民のほとんどが生き延びた。日本軍の主陣地が構築された宜野湾村では、村南部のように日本軍とともに「軍民雑居」となった地域では、住民は投降を許されず、日本軍の指示で本島南部に逃げることとなり多くの犠牲者を出している。嘉数地区や佐間下地区などにいた住民の犠牲者率は48%に上る。一方で早々に日本軍が撤退した村中北部は、フトゥキーアブ壕で4月4日に500人など集団投降した例が多く、新城地区や喜友名地区などの住民の犠牲者率は13%と低めである。なお、集団投降した避難壕では、移民帰りの人がいるなどして「鬼畜米帝」との洗脳にとらわれていなかった例も多い。「鬼畜米帝」を信じてアメリカ軍の投降勧告に応じなかった壕では、容赦のない攻撃を受け全滅したりしている。上述のフトゥキーアブ壕でも、数人の少女が「アメリカ軍に捕まったら何をされるかわからない」と壕から出ることを拒否して、手榴弾を投げ込まれ犠牲になっている。
※この「集団投降」の解説は、「沖縄戦」の解説の一部です。
「集団投降」を含む「沖縄戦」の記事については、「沖縄戦」の概要を参照ください。
- 集団投降のページへのリンク