ウェワク地区での自活とオーストラリア軍との戦いとは? わかりやすく解説

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ウェワク地区での自活とオーストラリア軍との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:15 UTC 版)

ニューギニアの戦い」の記事における「ウェワク地区での自活とオーストラリア軍との戦い」の解説

アイタペ決戦敗れた第18軍ウェワク後退した各部隊ウェワクからセピック川流域地域分散し1944年秋にアメリカ軍交代したオーストラリア軍との散発的戦闘繰り返しながら、原住民協力得て食糧採取し自活した。サクサクのほか、草の根トカゲ昆虫の類など、食べられるものは何でも食べたが、将兵飢餓感染症倒れていった。毒のある植物食べて中毒死したもの少なくない4000メートル級の山地越えでは貧弱な装備低下した体力のために凍死者も続出している。後の証言によれば日本兵日本兵現地人襲って食べ人肉食事件発生したとされるのもこの時期である。1944年12月第十八軍は「友軍兵の屍肉食す事を罰する」と布告していたが、これに反して友軍対す人肉食発覚した4名が処刑されている。掃討作戦積極的なオーストラリア軍包囲の輪を次第狭め1945年5月にはウェワクにも侵入日本軍内陸部へと追い込んだこの頃には、日本軍としては珍しい集投降をする部隊発生した竹永事件)。第18軍主力食料弾薬1945年9月までには尽き果てる予想され1か月後の玉砕全滅覚悟していた1945年8月15日終戦知らせニューギニア届いた9月13日東部ニューギニア日本軍オーストラリア軍に対して降伏し武装解除の後ウェワク沖合いムッシュ島に収容された。収容され陸海軍将兵人数1万1,197であった日本政府ニューギニア惨状配慮し復員船優先的に送ったとされるムッシュ島には11月末に最初復員船鹿島」が到着し1946年1月末までに将兵順次日本へ帰国した。この間にもムッシュ島では、祖国へ帰る日を待ちわびながら1,148名が衰弱し息を引き取った

※この「ウェワク地区での自活とオーストラリア軍との戦い」の解説は、「ニューギニアの戦い」の解説の一部です。
「ウェワク地区での自活とオーストラリア軍との戦い」を含む「ニューギニアの戦い」の記事については、「ニューギニアの戦い」の概要を参照ください。

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