日米交渉から開戦まで
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「フランクリン・ルーズベルト」の記事における「日米交渉から開戦まで」の解説
1941年4月からは日中間の戦争調停と日米間の和平合意を目指す日米交渉が本格化した。しかし、日独伊三国同盟問題や満州国など日米の溝は大きく、交渉はまとまらなかった。当時日本の指導部(第2次近衛内閣)は日米の国力の差を考え対米戦争に対して消極的であった。 しかし、1941年7月2日に策定された情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱によるフランス領インドシナやオランダ領東インドへの進駐計画はアメリカとの衝突をも予期したものであった。7月18日に第3次近衛内閣発足後、日本が平和目的であるとしながらも南部フランス領インドシナ進駐をほのめかすようになると、7月25日に在アメリカの日本資産凍結を行った。しかし7月28日に進駐が実行され、8月1日にアメリカは「日本を含む全侵略国」への石油禁輸を行った。第二次世界大戦における自陣営拡大の希望を持つドイツとイギリスは日米交渉打ち切りを外部から働きかけていた。ロナルド・リンゼイ(英語版)駐米英国大使は「ルーズベルト大統領は戦争を避けるため、経済封鎖に固執していた」と述べている。ただ、ハルノートやイギリスの工作などを見る限り、戦争を前提にこのような経済的締め付けを行っているとの見方もある。 「第49回大本営政府連絡会議」も参照 またこの間の1941年8月9日から12日にかけて、イギリスのチャーチル首相と大西洋会談を行い米英首脳共同の調印で、「大西洋憲章」を発表した。さらに、9月1日にはナチスドイツがイギリスとフランスに対して宣戦布告を行い、第二次世界大戦が勃発したが、9月3日、ルーズベルトはラジオ放送を通じ、アメリカは中立的な立場を守ることを宣言した。 8月17日の野村・ルーズベルト会談において、豊田貞次郎外相は首脳会談による調整を提案したが、ルーズベルトは日本側の態度変更がない限り応じられないと回答した。またハミルトン・フィッシュ3世(en:Hamilton Fish III)によれば、近衛首相はルーズベルト大統領との会談を希望したが、すでに対日戦を決意していたルーズベルトは会談の要請を拒絶したという。また駐日米国大使のジョセフ・グルーも首脳会談の開催を強く要請したが、ルーズベルト政権は「会談の必要なし」として却下している。 以降10月18日に発足した東條内閣(東條英機首相)と水面下の対日交渉に臨むものの、11月27日に日本側が最後通告と受け取ったハル・ノートが手交された。日本側は12月1日の御前会議で対米開戦を正式決定したが、12月6日にルーズベルトは昭和天皇宛に「平和を志向し関係改善を目指す」親電を送った。しかしこの日は日本側の交渉打ち切り文書である「対米覚書」が野村吉三郎大使に渡された日だった。 1941年12月7日(日本時間で12月8日)の日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争(開戦直後の閣議決定における日本側の呼称:大東亜戦争)が勃発し、翌日(12月8日)には、「Pearl Harbor Address to the Nation」(=真珠湾攻撃を国民に告げる)として、日本への宣戦布告を議会に求めた。 アメリカ議会の上院は全会一致、下院は1人(ジャネット・ランキン)が反対したのみで、宣戦布告を承認した。その後、ルーズベルトがイギリス首相ウィンストン・チャーチルに「我々は同じ船に乗りました、日本は攻撃してきました」と報告した際、チャーチルは手を叩いて喜んだ。その後議会で日本軍の「卑劣な騙し討ち」を非難し、その日のうちに宣戦布告の誓約に署名して日本との戦争に突入した。
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