日米会談での普天間返還提案とSACO中間報告
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「普天間基地移設問題」の記事における「日米会談での普天間返還提案とSACO中間報告」の解説
1996年1月11日に村山富市総理の後を継いで総理大臣となった橋本龍太郎は、政治家として沖縄との関わりがあり、会談前より公私に渡り勉強するなど入念に準備していたと、総理大臣首席秘書官であった江田憲司は語っている。また、当時防衛庁内で移設案の検討に関わった守屋武昌は「橋本首相は子供の頃、再婚した父に反抗していたが、海軍軍人の叔父が戦地に赴く際『両親を大切にするんだ』と別れの言葉を言い残し、沖縄で戦死したといういきがかりを持っていた。梶山静六官房長官も、陸軍少年航空兵として終戦直前に軍命で満州から霞ヶ浦に移動し、民間人を残してきたという悔いがあり、それ故に橋本首相と同様戦後処理についても積極的な姿勢を見せていた」と述べている。 江田は橋本が1996年2月24日にサンタモニカで自己の政権下初の日米首脳会談に臨んだが、当初普天間基地の返還は事前に準備した発言要領には無かった。それを交渉のテーブルに乗せたのは当時首相を務めていた橋本の強い意向であったという。4月12日に橋本と駐日大使であったウォルター・モンデールとの間で、「普天間基地の移設条件付返還」が合意され、普天間基地返還の方向性が進むことになった。1996年4月15日にはこれらを踏まえてSACO中間報告が提出される。この段階で、 5年後から7年後までの全面返還を目指すこと 移設を実施するためには十分な代替施設を用意すること 代替施設として沖縄県における他の米軍の施設及び区域におけるヘリポートの建設 といった旨が明記されている。 一方で、このSACO中間報告には別の側面もあった。1996年3月中旬から下旬にかけて、台湾総統選挙に圧力をかけるため人民解放軍が行ったミサイル演習に対抗し、アメリカは空母戦闘群を2個集結、天候の都合を名目にして台湾海峡を通過させて事実上の威圧を実施した。一連の事態が進行する中、外交チャンネルを通じた日本への説明は優先されず、日本側には対岸の火事として眺める雰囲気が残っていた上、当時の日米協力の指針(いわゆるガイドライン)は朝鮮半島有事への対応までが限界であり、台湾有事への指針としては何も無く、準備なしでの台湾有事の発生は日本政府にとり恐怖そのものでもあった。だが、日米の防衛当局者にはこの危機は追い風にもなった。沖縄で盛り上がっていた米軍基地への反発は水面下で継続されていた安保体制の再確認作業にはマイナス要素であったが、それを打ち消す効果があったからである。1996年4月のSACO中間報告で本土復帰時に実施されたものを面積ベースで上回る返還計画を示したことは、続けて内外に示す同盟強化策への「お膳立て」としての性格があり、5日後の4月17日に来日したクリントンは橋本と極東有事の際の日米防衛協力を検討することで合意し、新ガイドラインの制定、および周辺事態法を頂点とする1990年代末からの何本かの法律の制改定作業に繋がる。
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