日米修好通商条約 締結、初代駐日公使へとは? わかりやすく解説

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日米修好通商条約 締結、初代駐日公使へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:15 UTC 版)

タウンゼント・ハリス」の記事における「日米修好通商条約 締結、初代駐日公使へ」の解説

日本では通訳不備などから、対応にあたった下田奉行井上清直入港拒否されるなどのトラブルもあったが、折衝の末に正式許可を受け、下田玉泉寺領事館構える。ハリス大統領親書提出のために江戸出府を望むが、幕閣では水戸藩徳川斉昭攘夷論者が反対し、江戸出府留保された。下田においては薪水給与や回比率などの問題巡り和親条約改訂のための交渉が行われ、1857年6月17日安政4年5月26日)には下田協定調印されるこの頃からハリス体調崩し幕府看護婦要請した幕府ハリス籠絡目的として芸者斎藤きち送り3ヶ月だけ看病入っている(→唐人お吉)。 ハリスはたび重ねて江戸出府要請し続けていたが、1857年7月アメリカ砲艦下田入港すると、幕府江戸へ直接回航されることを恐れてハリス江戸出府江戸城への登城将軍との謁見許可するハリスヒュースケンらの一行1857年10月下田出発し江戸に入る。江戸で蕃書調所滞在して登城日取り決められ12月7日旧暦10月21日)に登城し13代将徳川家定謁見して親書読み上げている。 1858年安政5年)には大老となった井伊直弼京都朝廷勅許無しでの通商条約締結踏み切り日米修好通商条約締結された。これにより初代駐日公使となり、下田領事館閉鎖して1859年7月7日安政6年6月8日)に江戸元麻布善福寺公使館を置く。

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