日米修好通商条約 締結、初代駐日公使へ
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「タウンゼント・ハリス」の記事における「日米修好通商条約 締結、初代駐日公使へ」の解説
日本では通訳の不備などから、対応にあたった下田奉行・井上清直に入港を拒否されるなどのトラブルもあったが、折衝の末に正式許可を受け、下田玉泉寺に領事館を構える。ハリスは大統領親書の提出のために江戸出府を望むが、幕閣では水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、江戸出府は留保された。下田においては薪水給与や回比率などの問題を巡り和親条約改訂のための交渉が行われ、1857年6月17日(安政4年5月26日)には下田協定が調印される。この頃からハリスは体調を崩し幕府に看護婦を要請した。幕府はハリスの籠絡を目的として芸者の斎藤きちを送り3ヶ月だけ看病に入っている(→唐人お吉)。 ハリスはたび重ねて江戸出府を要請し続けていたが、1857年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、江戸城への登城、将軍との謁見を許可する。ハリス、ヒュースケンらの一行は1857年10月に下田を出発し、江戸に入る。江戸では蕃書調所に滞在して登城の日取りが決められ、12月7日(旧暦10月21日)に登城し、13代将軍徳川家定に謁見して親書を読み上げている。 1858年(安政5年)には大老となった井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しでの通商条約締結に踏み切り、日米修好通商条約が締結された。これにより初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して、1859年7月7日(安政6年6月8日)に江戸の元麻布善福寺に公使館を置く。
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