日米交渉と太平洋戦争とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 日米交渉と太平洋戦争の意味・解説 

日米交渉と太平洋戦争(第二次世界大戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:05 UTC 版)

日中戦争」の記事における「日米交渉と太平洋戦争(第二次世界大戦)」の解説

詳細は「日米交渉」を参照 1941年4月中旬より、重慶工作の道がないため、日米交渉開始された。日本三国同盟3条日本参戦義務についてと、アメリカ仲介による日中戦争解決要望したが、アメリカ門戸開放機会均等無条件適用提示した5月 - アメリカ対中武器貸与法発動5月 - 日本軍江北作戦5月7日6月15日 - 北支那方面軍中原会戦(百号作戦)。5月8月末 - 日本軍、再び重慶大空襲一〇二号作戦)。8月遠藤三郎第三飛行団長は重慶爆撃有効性疑問呈し再検討要請した6月 - シンガポールで英・蔣軍事会議6月22日独ソ戦がはじまると、松岡外相即時対ソ参戦上奏したが、7月2日御前会議独ソ戦不介入決定南方進出強化し、対英米戦を辞せず決定した7月7日 - 関東軍特種演習関東軍、対ソ戦を準備する8月断念)。7月10日アメリカ対案に対して外務省顧問斉藤良衛は、南京政府取り消し満州中国への返還日本軍無条件撤兵などを意味していると解釈松岡外相もこれに賛同した7月28日日本軍南部仏印進駐実施英米日本資産凍結した8月1日 - 米国対日輸出大幅に制限9月5日11月6日 - 第一次長沙作戦加号作戦)。 10月 - マニラ英米中の軍事会談10月16日近衛内閣総辞職18日東条内閣成立11月1日から翌日午前1時半までの会議で、自存自衛を完し大東亜新秩序建設するための米英戦争決意するとともに対米交渉12月1日までに成功すれば武力発動中止するという帝国国策遂行要領採択された。対米案では甲乙二案が了承され、甲案では、これまで日中提携消えて中国での通商無差別原則無条件承認認め譲歩し、また和平成立2年撤兵するとされ、満州については議題として触れないというものであった。乙案は、南方限定したもので仏印南部日本軍北部移駐在米資産の凍結復帰などが書かれ11月7日に甲案が11月20日に乙案がハル国務長官提示された。 11月22日 - 米国長官ハル暫定協定案を纏めワシントン英蘭濠中代表に日本の乙案を提示したうえで、南部仏印からの日本軍撤退対日禁輸一部解除というアメリカ対案提示したが、中国胡適大使これでは日本対中戦争自由に遂行することが可能だとして強く反対した。11月24日ハル英蘭濠中代表の説得再度行った中国側北部仏印日本軍25000を5000にするよう求めて譲らなかった。蔣介石アメリカ中国犠牲にして日本妥協しようとしているとして激怒ラティモア蔣介石ここまで怒るのははじめてだと米大統領報告した。さらに蔣介石スティムソン陸軍長官ノックス海軍長官にも親書送りチャーチルももし中国崩壊すれば英国危機瀕するとしてルーズベルト大統領説得した11月26日 - 米国長官ハル暫定協定案を放棄しハル・ノート作成同日野村来栖大使手交日本はこれを最後通牒解し対米開戦に傾く。 12月翌年1月 - 第二次長沙作戦太平洋戦争(大東亜戦争)開戦 12月8日 - 日本上海降伏勧告応じなかったイギリス砲艦ペトレル号を撃沈華北では天津英仏租界接収華南沙面イギリス租界へも進駐マレー半島上陸、及び真珠湾攻撃広東第23軍香港攻略開始香港の戦い)。こうして太平洋戦争勃発する日米開戦ニュース重慶国民政府狂喜した12月9日 - 中華民国重慶政府蔣介石政権)、日独伊宣戦布告12月12日 - 日本対米戦争支那事変対中国戦線)も含めて大東亜戦争」と呼称することを閣議決定する。同日スターリン蔣介石参戦催促に対して兵力極東にさくことはできないため対日参戦考えられない答えた12月25日 - 日本軍香港占領12月31日アメリカ要請蔣介石中国戦区連合軍総司令官就任蔣介石希望ジョセフ・スティルウェル中国国民党軍参謀長就任する1942年昭和17年1月1日蔣介石日本一時興奮を得るが、結局は自滅する語った1月31日 - 日本軍ビルマ攻略開始援蔣ルート遮断)。 3月 - 米国国民政府に5億ドル借款成立5月9月 - 浙贛作戦中国語版)(せ号作戦)、浙は浙江省、贛は江西省旧称5月末 - 日本軍ビルマ全域占領10月 - 英米中国における治外法権撤廃不平等条約廃止)。 1943年昭和18年1月 - 延安で「日本人解放連盟成立前線日本兵投降の呼びかけ1月9日 - 日本南京国民政府汪兆銘政権)は、日華共同声明発表汪兆銘政権米英宣戦布告日華協定締結日本の南政府への租界返還治外法権撤廃など)。 1月11日 - 国民政府英米両国治外法権撤廃についての条約締結1月14日 - イタリア南京政府対し租界返還治外法権撤廃通告2月21日 - 日本軍フランスヴィシー政府)側の了解広州湾共同防衛協議)を得て広州湾フランス租界広州湾租借地)に進駐2月3月 - 江北殲滅作戦江北武漢西方揚子江北側5月6月 - 江南殲滅作戦10月30日 - 日本南京政府新たな同盟条約調印11月翌年1月 - 常徳殲滅作戦常徳武漢南西11月22日11月26日 - カイロ英米首脳会談カイロ会談)。 11月25日 - 台湾米中連合航空隊空襲新竹空襲)。 1944年昭和19年3月25日 - 日本軍黄河鉄橋修理完了4月翌年1月 - 大陸打通作戦1号作戦)、前半京漢作戦(コ号作戦)、後半湘桂作戦ト号作戦)。 日本軍4月19日鄭州占領5月25日には 洛陽占領京漢作戦成功6月2日9月14日 - 拉孟・騰越の戦いにおいて日本軍守備隊玉砕同地失陥によって援蔣ルート(ビルマルート)再開6月16日 - 成都基地とするアメリカ軍B-29爆撃機が、日本本土空襲開始八幡空襲)。 6月18日 - 日本軍長沙攻略7月2日 - インパール作戦失敗により、援蔣ルート遮断継続目的とする断作戦新たに発令7月7日 - サイパン陥落アメリカ軍成都替わるB-29による日本本土爆撃拠点確保11月10日 - 汪兆銘客死1945年昭和20年1月 - 新たな援蔣ルートであるレド公路開通1月7日 - 成都から出撃したB-29爆撃機大村空襲。これを最後に成都からの日本本土空襲打ち切り2月4日2月11日 - ヤルタ会談での戦後処理議題蔣介石満州支配権益ソ連に譲ることを約束3月3日4月11日 - 老河口作戦日本軍老河口飛行場占領4月15日5月9日 - 芷江作戦二〇作戦)。中国軍の反撃受けた日本軍芷江飛行場の手前、白馬山付近までしか進め死傷2万8000損害被って敗退5月25日 - 日本軍南寧放棄 8月6日8月9日 - アメリカ広島長崎原子爆弾投下。(日本への原子爆弾投下8月8日 - ソ連日ソ中立条約破棄し満州国朝鮮半島侵攻8月14日 - 葛根廟事件ソ連軍日本人避難民虐殺)、ポツダム宣言受諾8月15日 - 日本連合国対しポツダム宣言受諾正式に表明。(日本の降伏8月17日 - 満洲国皇帝溥儀退位宣言満洲国消滅9月2日 - 日本連合国、米戦艦ミズーリ号にて降伏文書調印9月9日 - 南京にて連合国主催調印が行われ、支那派遣軍総司令官岡村寧次大将中華民国陸軍総司令何応欽降伏文書調印

※この「日米交渉と太平洋戦争(第二次世界大戦)」の解説は、「日中戦争」の解説の一部です。
「日米交渉と太平洋戦争(第二次世界大戦)」を含む「日中戦争」の記事については、「日中戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日米交渉と太平洋戦争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日米交渉と太平洋戦争」の関連用語

日米交渉と太平洋戦争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日米交渉と太平洋戦争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日中戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS