攻略開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 08:08 UTC 版)
279年、杜預は呉の西陵督の張政と交戦し、これに勝利した。張政は敗戦を恥じて報告しなかったので、杜預はわざと孫晧のもとに捕虜を帰した。果たして張政は召還され、孫晧は守将を武昌監の劉憲に差し替え、征南将軍の成璩・西陵監の鄭広を増援として派遣した。杜預は張政を追い落とす計略が成功したのを見て、呉はすっかり傾いたと判断した。 同年、王濬と杜預は司馬炎に、呉討伐の時期が来たと上申した。杜預からの上書が届いた時、司馬炎は張華と囲碁を打っていたが、張華もまた杜預の意見に全面的に賛同した。これにより司馬炎は遂に征伐を決心した。この時点では鮮卑の禿髪樹機能はまだ健在だったが、折しも呉では広州で郭馬が反乱を起こし、反乱軍は広州・交州に拡大しており、呉は即座に鎮圧することができなかった。 12月、司馬炎は賈充を大都督に、楊済を副統領に任命し、各軍は攻勢を開始した。また張華には兵糧の運送と軍全体の進攻を統括させた。賈充はなおも慎重論を主張したが、司馬炎は「そなたが行かぬなら、私が自ら行くまでだ」と述べ、賈充に大都督を拝命させた。羊祜が生存中に策定した作戦の計画に従い、20万余の軍勢が、6方向より呉に侵攻を開始し、迅速に各地の呉軍の連携を断ち、各個撃破していった。司馬伷は下邳から涂中へ向かい、王渾は寿春(現在の安徽省六安市寿県)に出撃した。王戎は項城より武昌(現在の湖北省鄂州市鄂城区)に進攻し、胡奮は沙羡(現在の湖北省武漢市江夏区)から夏口(現在の湖北省武漢市武昌区)に進撃した。杜預は襄陽から江陵(現在の湖北省荊州市荊州区)を目指し、王濬と唐彬は水軍を指揮して、蜀から長江を下っていった。晋軍の西部方面からの軍が主に攻撃を担い、東部方面からの軍は呉軍の主力を牽制する責任を担った。各軍は協調行動をとり、司馬炎は、建平にいる王濬の軍に杜預の監督を受けるよう命令し、建業(現在の南京市)攻略は王渾が指揮を執る事となった。なお、馬隆が禿髪樹機能を討ったのもこのころである。 279年12月には王濬・唐彬が指揮を執る7万の軍勢が長江沿岸を攻略し、280年正月には王渾軍は既に長江を渡り、建業攻略の準備を始めた。 2月、王濬・唐彬が指揮を執る軍が、丹陽を攻撃し、西陵峡に進出した。呉軍は長江に鉄鎖を設置し、また、鉄の錐を長江に放ち、晋軍の前進を食い止めようとしたが敵わなかった。王濬は予め、大筏数十個を作り、筏の上に草で作った人形を配置し、筏を先行させ、鉄の錐を取り除かせ、火を用い鉄鎖を溶かした。晋軍は障害を順調に取り除き、西陵・夷道・楽郷・江陵へと進撃した。さらに胡奮も公安を攻め、ほとんどの戦は晋軍の勝利に帰した。唯一、建平の吾彦はよく守ったため、晋軍は早期の攻略は不可能とみて、抑えの兵を残して素通りしたが、大勢に影響はなかった。 一方、孫晧は丞相張悌に対し沈瑩・孫震等を率い3万の軍勢で晋軍の長江渡河を迎撃するよう命令した。張悌らは王渾軍を目標にしたが、結果は王渾配下の周浚によって、晋軍の大勝に終わった。これで張悌・沈瑩・孫震といった呉軍の将軍や兵士5,800人が惨殺されたため、呉は朝廷内から民衆まで大いに震え上がった。王渾軍は建業に接近し、配下の部将はすぐに建業攻略を王渾に建議した。しかし、王渾は司馬炎の長江以北を守ることという命令に従い、配下武将の建議を拒否、長江以北に軍隊を駐留させ、王濬軍を待つこととした。また司馬伷軍は長江付近に至り、建業を脅迫し始めた。
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