作戦の計画
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「ジェイムズ・ロングストリート」の記事における「作戦の計画」の解説
チャンセラーズヴィルとジャクソンの死に続いて、ロングストリートとリーは5月半ばに会談して夏の作戦について議論した。ロングストリートはもう一度、彼の全軍あるいは一部をテネシーに派遣することを主張した。この作戦の正当性については、北軍のグラント将軍が、南軍が強固に守るミシシッピ川沿岸の町ビックスバーグに迫っていることからも喫緊の課題になりつつあった。ロングストリートはブラッグの下に援軍を送ればローズクランズの部隊をオハイオ川方面に追い遣り、続いてグラントのビックスバーグ包囲を破ることができるというものだった。リーはその軍団の分割に反対し、その代わりにペンシルベニア州に向けた大規模な攻撃を主張した。ロングストリートの備忘録ではリーの提案に対する彼の反応が次のように書かれている。 彼の作戦と願望を表明したうえでは、異なる方向になる提案をしたとしても無益で不適切になった。私が求めることが出来たのは作戦計画の方針を防衛的戦術の一つにすべきということだった。つまり、我々の国土の中にその目的に適う適当な位置で敵に攻撃させるように仕向け、大きな勝利を確実にするというものだった。このことについて彼は重要でありその全体計画を補うものとして容易に同意した。 この文章は作戦が行われた数年後に書かれたものであり、戦闘の結果と戦後の敗戦原因批判という後知恵に影響されている。当時のロングストリートが書いた手紙にはそのようなリーとの取引が書かれていない。1868年4月、リーは「そのような約束をしたことはない。そのようなことを考えたことも無い。」と言った。さらにリーの戦闘後の報告書では、「我々の本拠から遠く離れた場所で敵から攻撃されるのでなければ会戦を行うつもりは無かった。」と書いた。 北バージニア軍はジャクソンの死によって再編された。2人の師団指揮官リチャード・イーウェルとA・P・ヒルが中将に昇進し第2と第3軍団を指揮するとされた。ロングストリートの第1軍団はリチャード・H・アンダーソン少将の師団を手放し、ラファイエット・マクローズ、ジョージ・ピケットおよびジョン・フッドの師団が残った。 この夏の方面作戦の開始時点で、ロングストリートの軍団はシェナンドー渓谷を通ってイーウェルの軍団を追った。ロングストリートの雇ったスパイ、ヘンリー・トマス・ハリソンが、北軍のポトマック軍は予想よりも速く北に向かって南軍に接しようとしていると警告した。このことでリーは即座に全軍をゲティスバーグ近くに集結させようとした。
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作戦の計画
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ケンタッキーの開拓民は自分達で遠征隊を送るには権限、人、物資が足りなかったので、1777年10月、クラークは荒野の道を通ってウィリアムズバーグに行き、ヘンリー知事に会った。その道すがら、インディアンの襲撃故にケンタッキーを離れた開拓者約100人の隊と合流した。クラークの提案について秘密を守るために、トーマス・ジェファーソン、ジョージ・メイソン、ジョージ・ワイスなどバージニアの影響力ある人物数人にのみ内容が明かされた。ヘンリーは当初この作戦が実行可能なものか疑念を表明したが、クラークはヘンリー達の信用を得ることに成功した。この作戦はバージニア議会議員の承認を得たが、議員には遠征についてぼんやりとした情報しか与えられなかった。公にはケンタッキー防衛のために、クラークに部隊を立ち上げる権限が与えられた。ヘンリー知事からの秘密の指示では、カスカスキアを占領し、その後はクラークが適当と考えるところまで進めることになっていた。 ヘンリー知事はクラークをバージニア民兵隊の中佐に任官し、50名の兵士からなる中隊7個を立ち上げることを承認した。この部隊は後にイリノイ連隊と呼ばれることになり、バージニアの軍隊であり、戦争中にアメリカ合衆国の国軍となった大陸軍に属するものではなかった。兵士はケンタッキーに到着した後に3か月間の徴兵期間で徴募されるものとされた。クラークは秘密保持のために、遠征の目的がイリノイ地方侵略であることを徴兵された兵士の誰にも伝えなかった。兵士を募集し物資を購入するために当時はひどく価値が下がっていた大陸貨幣で1,200ポンドを与えられた。 クラークはモノンガヒラ川沿いのレッドストーン・オールド・フォートを作戦本部とし、ダンモアの戦争以来の僚友であるジョセフ・ボーマン、レナード・ヘルム、ウィリアム・ハロードの3人がそれぞれ徴兵を始めた。クラークはウィリアム・ベイリー・スミス大尉を少佐に任官し、スミスに150ポンドを与えて、ホルストン川流域(テネシー州)で4個中隊を徴募し、ケンタッキーでクラークと合流するよう命令した。 しかし様々な理由でイリノイ連隊に認められた350名の兵士を集めることができなかった。徴兵担当者は大陸軍や他の民兵隊の徴兵担当者と競合した。ケンタッキーはあまりに人口が少ないので人を割くだけの余裕がないと考える者もおり、守るよりも明け渡すべきだと推奨する者もいた。ホルストン川流域の住人は北のオハイオからのインディアンよりも、南のチェロキー族のことを心配しており、北方への作戦で徴兵に応じるのは躊躇した。ペンシルベニアの住民も幾らかはイリノイ連隊に応募したが、ペンシルベニアとバージニアは長く境界紛争を続けており、バージニアの領土を守るために行う作戦と考えられるものに応募する者は少なかった。
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