作戦の経過
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シーア派とスンナ派が手を携えての米軍に対する一斉蜂起の可能性が懸念されていた情勢を踏まえて、シーア派の武装蜂起、イラクの政治家の発言、対応なども交えつつ以下に纏める。 3月29日 米側、サドル派の発行する週刊紙Al-Hawza Al-Natiqa が暴力を使嗾しているとして発禁処分。バグダードで群集が表現の自由の侵害であると抗議行動。同紙は60日間の発行停止処分の通告を受けていた。 3月31日 ファルージャで民間軍事会社の武装社員4名が殺害される。 4月1日 イラク警察、4名の遺体を回収し米軍に引き渡す。ブレマーCPA代表、ブラックウォーター社武装社員の殺害を非難。米軍報道官キミット准将は殺害に関わった者を狩り出すと発言。ファルージャ市街は奇妙な静寂に包まれており米軍の姿は見当たらずと特派員。 4月2日 イラク暫定統治評議会、殺害を非難。ファルージャのウラマーら金曜日の礼拝の説教で4名の遺体損壊はイスラームの教えに背くと説教するも殺害自体を非難するに至らず。米軍報道官キミット准将はファルージャの支配を回復するとしつつも、殺害者を司直の手に委ねれば強制力の行使は避けられ町の復興を再開できると発言。町の指導者らは殺害を非難する声明を発表。 4月3日 バグダードのサドルシティーで大規模な抗議行動。非武装でマフディー軍が行進。バグダードから南のマフムーディーヤの警察署長が殺害される。 4月5日 米軍、ファルージャ市街入り口を土堤で封鎖。市街地を包囲し攻勢開始。参加兵力は米海兵隊1200名およびイラク治安部隊2個大隊。目撃者によると米軍航空機が住宅地区を爆撃。死者多数とのこと。イラク警察、サドル師側近をホーイー師殺害に関する容疑で逮捕 。 4月6日 米軍、市街地南東部の工場地区を奪取と伝える。市街には夜間外出禁止令が敷かれている。目撃者によると市街地には銃声と爆発音がこだましている。ラマーディーで米海兵隊12名戦死20名負傷。 4月7日 ファルージャで市街戦続く。シーア派ムクタダー・サドル師のマフディー軍、バグダードのサドルシティーや南部で示威行動及び武装蜂起。ブッシュ大統領、ラマーディーでの大量の戦死を受けて決意揺るがずと発言。 AP通信によるとモスクからはジハードの呼びかけが流れる。武装勢力の中には武器を手にした女性が見受けられる。また迫撃砲を持ち運んでいる者がいる。モスクの一部施設から攻撃を受けたため米軍は爆弾を投下し破壊。死傷者数は両者で異なる。サドル師、イラクの統治権限を米国への協力者でなく正直な人物へ渡せとの声明をナジャフにて発表。スィースターニー師、連合軍のシーア派蜂起への対応を非難し両者に平静を呼びかけ暴力を非難。 4月8日 ブレマー代表の要請によりイラク内務相辞任す。ファルージャの病院関係者によると死者は280名から300名、負傷者は少なくとも400名。バグダードで献血、水、食糧の寄付を募りファルージャへ向けて運ぶ車列出発。アルジャジーラ、日本人人質3名の姿を放映 。作戦の結果、多数のイラク人、住民が殺害された。米軍は、4月11日からは空爆を中心とする大規模な攻撃を開始し、さらに多くの住民を殺害した。殺害された住民の数は600人とも千人以上とも言われる。殺害された住民のうち25%は女性で、25%は子供だったとも言われている。私立病院の院長ターリブ・アル=ジャナビーによると「米軍は、病院も一般住民も武装戦士達も、区別することなく攻撃した」という。民家に武装勢力がいるという誤った情報によるピンポイント爆撃によって多くの民家が破壊された。ファルージャ市内にある70のモスクのうち39がこの戦闘で破壊された(アル=ジャナビーの病院も三度くりかえして、米軍による攻撃を受けたという。しかし、住民側は武装勢力と一体化しており米軍からは区別が不可能であるのも事実である)。完全制圧を目指した米軍であったが、ファルージャ市内での惨状がマスメディアによって報道されると、イラク各地での反米運動の他、世界から非難が沸き起こり、作戦を中止せざるを得なかった。4月13日に米軍は停戦の上交渉を開始。ファルージャ防衛軍の設立を認め、5月1日、ファルージャ市内から撤収し郊外東縁の陣地以遠に退いた。 ファルージャ防衛軍の司令官には、ジャースィム・ムハンマド・サーリフ元共和国防衛隊指揮官が就任した。サーリフは共和国防衛隊の軍服で市内に入城、ファルージャ市民から熱烈な歓迎を受け、さながら凱旋将軍のようであった。しかし、サーリフが軍将校時代の1991年にシーア派住民虐殺に関わっていたこと、サッダームと密接な関係であった経歴から、イラクのシーア派勢力から反発が出たため、同じく元RG将校ながらサッダームと対立し、国外追放された経歴を持つムハンマド・ラティーフ将軍が代わりの司令官に任命された。 しかし、ラティーフも1980年代にクルド人が大量虐殺された軍事作戦に関与していたとして、再びシーア派・クルド勢力から反発が起きた。ファルージャ防衛軍は、後に多くの隊員が脱走して、逆に武装勢力側に付いて米兵を襲撃するという事態が起こり、解散させられた。 この攻撃により市民の対米感情は更に悪化し、この後アブー=ムスアブ・アッ=ザルカーウィー率いるアルカーイダもこの街を根拠地とするに至ったと考えられた。武装勢力はこの地で、誘拐した外国人の殺害を繰り返したとされている。
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作戦の経過
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11月7日 米軍およびイラク軍は市街地北縁沿いに走る鉄道線路土手北側に集結。 11月8日 アッラーウィー首相は「1月の国民議会選挙を実施することができるようにテロリストを排除する」として、米軍とイラク国家警備隊のファルージャ侵攻を承認し、ファルージャ市民の外出禁止令、バグダード国際空港の48時間閉鎖、生活物資輸送を除くシリア・ヨルダン国境の封鎖を発令した。米海兵隊第3軽装甲偵察大隊(LAV-25装備)とイラク軍第36コマンドー大隊が市西部郊外、市街地中心部からみてユーフラテス河対岸にて作戦を開始。激しい砲撃の後に総合病院と2つの橋を確保し、市街地を東西に縦貫する国道10号を扼した。病院確保について、CNNは無辜の民間人が負傷していることを隠す為ではないかと報道したが、米軍は病院を利用した反米宣伝活動を阻止する為だとし、また、モスクを攻撃して10名死亡、病院での戦闘で38名が死亡したとの報道に対し、米軍は市民説を否定して、死亡したのは武装勢力42名と説明した。攻撃には航空機による援護もあったが、特に対地掃射機ガンシップAC-130が投入され、武装勢力及び地上陣地、ことに爆弾が仕掛けられている可能性が高い路上に放置されている車両を掃射した。これに対し、ザルカーウィーはインターネットで声明を発表、徹底抗戦の意思を表明した。また、武装勢力側は降伏する姿勢を見せて米兵・イラク兵に近づいたところで攻撃をしたり、死んだふりをして米兵・イラク兵が近づいたところで攻撃するなどの行為を行っていた。 11月9日 米軍海兵隊2個連隊戦闘団(イラク軍歩兵大隊4個、米陸軍2個機械化歩兵大隊を含む)連合軍は8日夕方から9日にかけての夜、激しい砲撃と導爆索による仕掛け爆弾除去ののち、鉄道土手を複数の地点で切り開いて通路を確保、市街地への進撃を開始。市の電力を切断し、米陸軍の第7騎兵連隊第2大隊は市街地中心部にあるJolan Parkを制圧。米海兵隊の歩兵大隊およびイラク軍歩兵大隊はこれを緩やかに続けて市街地を一家屋ずつ掃討しつつ南下。米軍10名、イラク軍2名の死者、そして数不明ながら多数のイラク人の死者が出た。 一方、スンナ派のイラク・イスラーム党とイラク・ムスリム・ウラマー協会は侵攻に抗議、選挙ボイコットを表明し、また、イラク・イスラム党は閣僚を引き揚げ暫定政府から離脱した。また、アッラーウィー首相の親族2名が誘拐され、バグダードなどで報復的な爆弾テロが起きた。 11月10日 市街地を東西に縦貫する国道10号に沿い連合軍は各部隊を一線に並べるように掃討作戦を継続。ただし、米海兵隊と米陸軍の機械化歩兵大隊の進撃速度の違いからイラク側武装組織の勢力は後方へ浸透し市街地北部でも戦闘は引き続き発生。米陸軍部隊は国道10号線を確保しつつ、部隊の一部をもって北へと矛先を転じさせ、一度通過した地域を再度南から掃討。海兵隊報道官は中心部を含め市の7割を制圧し、武装勢力70人を殺害したと発表した。しかし、米国のラムズフェルド国防長官は500名の武装勢力を殺害したと表明し、敵の死者数を把握できなかったことが分かる。また、在イラク多国籍軍のメッツ作戦司令官は、ザルカーウィーは侵攻以前に市外へ逃亡していたという見解を述べた。 11月11日 国道10号線を越えて、南側へ連合軍は進撃を開始。 11月12日 連合軍は市の北部を制圧し、武装勢力60名を殺害した。4日間の戦闘で米軍18名、イラク軍3名が死亡した。市街地最東部を進む米陸軍機械化歩兵大隊のある中隊では中隊副長が戦死。イスラム宗教者委員会は抗議として、4日間のゼネストを国民に呼びかけた。 11月13日 市街地最東部を進む米陸軍機械化歩兵大隊のある中隊で中隊長が戦死。同中隊は一旦後退し立て直しを余儀なくされた。イラク政府はファルージャに残るのは一部の武装勢力の拠点だけで、制圧作戦は終わりを迎えたと表明した。武装勢力は延べ1000名が死亡、また連合軍は200人を拘束した。対してシーア派民兵を率いるサドルも選挙ボイコットを宣言した。一方、赤新月社はファルージャ市民の生活は壊滅状態だと発表。 11月14日 赤新月社の救援トラックがファルージャに入ろうとしたところ、米兵によって阻止された。 11月15日 赤新月社のトラックが再度進入を試みたが阻止され、避難民を装って救援物資を搬入した。負傷したイラク人を海兵隊員が死んだふりをしている武装勢力と勘違いし、誤射殺した映像が流出、報道されて問題となる。 11月16日 暫定政権のダーウード国防相が武装勢力1600名を拘束したと表明した。 11月17日 連合軍は市街地南部で武器弾薬を捜索。多数を発見。押収。 11月19日 暫定政権ナキーブ内務相がファルージャの戦闘が終結したと発表したが、同時にファルージャの武装勢力の主体はイラク人だったことも表明、武装勢力は外国人であると宣言し続けてきたイラク政権が、自国民が武装勢力となっている現実を認めることはまれである。 11月20日 米陸軍第2歩兵連隊第2大隊、ファルージャでの任務を終えて作戦開始以前の担任地域へと帰還。夜明け作戦での同大隊の戦果は304名以上殺害、損害は戦死7名、負傷72名。 11月21日 暫定政権は市内86地区の内、75地区で捜索を完了し、安全が確認されたと発表した。一方、米軍は20箇所におよぶ武装勢力の拷問所を、ファルージャ警察は隠してあった地対空ミサイル、迫撃砲、地雷などを発見した。 11月25日 イラク軍がザルカーウィー率いる「タウヒード・ワ・ジハード」の旗を掲げた工場を発見し、毒ガス工場だと公表した。しかし、毒ガスを製造していた痕跡は無い。暫定政権はファルージャでの死者が2080名、拘束者が1600人以上の上ったことを発表した。米軍の事前公表では、ファルージャ市内に残る人数は3000人から6000人であったことから、6000人だとした場合3分の1が死亡し、生き残りの半数近くも拘束したことになる。なお、8日からこの日までに米軍は50人、イラク軍は8人が死亡した。
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作戦の経過
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デルタフォースの隊員を搭乗させたC-130は4月24日18時にマシーラ島を離陸、22時にデザート・ワンへ到着しRH-53Dの到着を待った。15分後、展開していた道路監視チームがデザート・ワン近郊を走っていた1台の民間バスを発見し、停車させて乗客を一時的に拘束した。さらに同じ路上で燃料輸送トラックに遭遇し、停車させようとしたが運転手が無視したため対戦車ミサイルで破壊した。この運転手は後続車両に乗って逃走した。 一方RH-53Dは19時30分にニミッツから発艦していたが、飛行中ハブーブに巻き込まれ、5番機が冷却システムの故障でニミッツへ引き返し、6番機がメインローターの故障で緊急着陸、搭乗員を8番機へ移乗させた後放棄されていた。デザート・ワンへ到着したのは予定より1時間遅れの翌日0時30分頃であった。さらに到着したRH-53Dのうち2番機が油圧トラブルで飛行できなくなり、作戦に必要な最低機数を割ってしまったためやむなく作戦を中止せざるを得なくなってしまった。 撤収準備に掛かっていた2時40分頃、低空でホバリングしながら移動中だったRH-53D 3番機が強風に煽られ近くに駐機していたEC-130に激突し炎上。これによって8名の死者と4名の負傷者を出し、大部分が損壊したRH-53Dは全機放棄され、搭乗員とデルタフォースは残ったC-130に分乗して撤退するという最悪の幕引きとなった。
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作戦の経過
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「カイラ・ミューラー作戦」の記事における「作戦の経過」の解説
2019年10月26日、アメリカ軍の特殊部隊(デルタフォースおよびレンジャー)は、イラク北部アルビールから8機のヘリコプターに分乗してシリア北部へ向けて移動。移動にあたっては不用意な交戦に陥らないよう、シリアに展開しているロシア連邦軍側との間で事前調整も行われた。ヘリコプターはイドリブ県ハーレム郡(英語版)、バリシャ村(英語版)近郊の隠れ家の近くに着陸、特殊部隊の隊員が家の壁を爆破して突入すると一方的な交戦状態となった。F-15戦闘機と無人攻撃機のMQ-9 リーパーを投入して空爆も行った。バグダーディーは3人の子供(後日、2人であると訂正されている)をつれてトンネル内に逃げ込み、自爆用のベストを起動して爆死。ISIL側の被害は、バクダーディーと子供のほか、戦闘員5人、バグダーディーの妻が死亡。2人の成人男性が捕虜となったほか11人の児童が解放された。アメリカ軍側の被害は、負傷者2人と爆発に巻き込まれた軍用犬コナンであった。
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作戦の経過
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1927年9月22日、唐生智は「武漢政治分会」の名義で「護党」を宣言し、新広西派主導の中央特別委員会に反対すると公表した。併せて、国民革命軍第36軍劉興の部隊に東進を命令したので、当塗県の桂軍第7軍(9月19日より夏威が軍長に就任)の部隊と前哨戦が発生した。桂軍はこれに対し「中央」の名義で西進出兵し、唐生智を攻撃した。 桂軍は政治と軍事の手段を同時に使い譚延闓を動員し、孫科らを武漢に向かわせ唐生智と会談させたが、会談は失敗した。 10月18日、南京政府に投降した程潜の国民革命軍第6軍はまず宣城を守備していた第36軍劉興の部隊に攻撃開始し、寧漢戦争が正式に勃発した。 10月20日、南京国民政府は唐生智の討伐を決定、一方、21日に武漢政治分会も中央特別委員会の正当性を否定した。24日、南京国民政府は唐生智の党籍剥奪を決定。また、李宗仁の第3路、程潜の第4路を以て西征軍を編成した。編成は以下の通り。 南京政府側 西征軍江右路:李宗仁総指揮、江北から西に進軍。第7軍 - 軍長:夏威 第37軍 - 軍長:陳調元 第19軍 - 軍長:胡宗鋒 江左路:程潜総指揮、江北から西に進軍。第6軍 - 軍長:程潜(兼)第17師 - 師長:李明灝(中国語版) 第18師 - 師長:張軫 第19師 - 師長:胡文斗 教導総隊 - 総隊長:李国良、副総隊長:湯恩伯 第13軍 - 軍長:陳嘉祐 第44軍 - 軍長:葉開鑫 征路討唐軍第2軍 - 軍長:魯滌平、副軍長:張輝瓚(中国語版)第4師 - 師長:王捷俊 第6師 - 師長:戴岳 第19師 - 師長:朱耀華(中国語版) 第20軍 - 軍長:楊森 第43軍 - 軍長:李燊 その他第25軍 - 軍長:周西成、湖南省西部に派遣 第5軍 - 軍長:李福林(中国語版)、武漢に派遣 武漢政府側 第4集団軍 - 司令官:唐生智第8軍 - 軍長:李品仙第1師 - 師長:張国威 第2師 - 師長:李雲杰 第3師 - 師長:呉尚 第35軍 - 軍長:何鍵、安慶を守備 第36軍 - 軍長:劉興、蕪湖を守備第1師 - 師長:廖磊 第2師 - 師長:凌兆堯 第3師 - 師長:張節 第18軍 - 軍長:葉琪(中国語版)、10月20日、第8軍、第35軍の部隊を抽出し編成(11月21日新編とも)独立第4師 - 師長:門炳岳 独立第7師 - 師長:何宣 独立第21師 - 師長:危宿鐘 江西省の国民革命軍朱培徳の部隊は既に南京国民政府に投降していたため、唐生智は南京国民政府軍の部隊に腰から半分に切られるように分断されること防ぐため、安徽省から撤退した。李宗仁は自ら安慶に赴き前線の作戦指揮を執り、併せて唐生智の「十大罪状」を発表した。唐生智は撤退を続け、武穴、武漢を相次いで放棄した。11月11日、唐生智は李品仙、何鍵ら将官を集めると、自ら下野を表明、湖南省へ撤退し、しばらくの間防衛線を維持して休養に努めるよう命じた。同日、張国威が李品仙に代わって第8軍長に任ぜられたが、離反が発覚し処刑された。12日夜、唐は参謀の張翼鵬、妟勲甫とともに貨物船「御月丸」で日本に亡命した。同日、李品仙、廖磊、何鍵、周斕らは南京政府に停戦を求めたが、桂軍は応じなかった。14日、唐軍は撤退を開始し、湖南省に逃れた。15日、南京国民政府は武漢政治分会を解消して湘鄂臨時政務委員会を設置、程潜が主席となった。こうして武漢は南京国民政府の制圧下となった。
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作戦の経過
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蔣介石と新広西派との対立が激化した後、河北に駐屯していた新広西派の部隊は白崇禧が指揮をとっていた。白崇禧の当初の計画では、第36軍をもって保定・津浦線に沿って南下し徐州に至り、湖北の新広西派軍の南京攻略と歩調を合わせるというものであった。しかし、第36軍はもともとは唐生智の部隊であったので、蔣介石はこれを利用するため、唐生智を日本から帰国させ、以前の河北に派遣した。唐生智の旧部隊への影響力は大きかったため、白崇禧は第36軍に対して制御できなくなり、やむを得ず隠密裏に唐山へ行き、船で河北を脱出した。第36軍軍長、広西籍の軍官廖磊も唐生智が河北に到着した後に自ら辞職した。このことにより、河北の新広西派の軍で多くの広西籍の軍官が辞職し南下することになった。蔣桂戦争はこの段階ではまだ正式には発生していなかったが、河北の新広西派はすでに瓦解していた。このため、白崇禧は香港に脱出することとなった。 李宗仁・白崇禧は交通事情が原因となって、武漢に戻れず、新広西派の部隊を指揮する方法が無くなった。また、黄紹竑は広西で留守を守ってたので北上できなかった。このような情勢から、新広西派の部隊はそれぞれ配置のまま実質的な戦闘状態に入った。 3月末、蔣介石は劉峙・朱培徳の部隊を動員し、武漢侵攻の準備を始めた。それに続き、もともとは新広西派に属していた湖南省政府議長の程潜が突然蔣介石に就いた。新広西派の内部では、胡宗鐸・夏威・陶鈞と李明瑞・兪作柏らが対立していた。4月初め、李明瑞・兪作柏・楊騰輝らは蔣介石と打ち合わせた後、「内戦」への不参加を宣言し、所属部隊を後退させた。これにより新広西派の湖北東部(鄂東)防衛線に隙間が生じてしまった。新広西派は武漢放棄を迫られ、湖北西部(鄂西)へ後退し守勢をとった。 同じ頃、李宗仁・白崇禧は相前後して香港に着き、広州から西へ向かい広西に帰還し、広西の留守を守っていた黄紹竑と面会した。しかし、湖北の形勢は既に逆転できる形勢ではなかった。 4月11日、国民政府は「新広西派軍隊に告げる書」を発布し、新広西派の「罪悪」を列挙し、併せて新広西派軍の兵士に抵抗の放棄を呼びかけた。新広西派の兵士の心情は緩み、胡宗鐸・夏威・陶鈞・葉琪らは別々に蔣介石と協力する交渉を行った。最後にはそれぞれ辞職し、出国した。湖北の新広西派部隊は蔣介石の軍に収容され改編された。 蔣介石は直ちに部隊を集め広西侵攻の準備をし、あわせて李宗仁、白崇禧に下野して出国することを勧告し、黄紹竑には広西でそのまま留まるのを認めた。ただし、李明瑞・兪作柏を広西の主席とすることを条件とした。新広西派にとってこの内容が十分に苛酷で、受け入れることができなかったので、部隊を動員し迎撃戦の準備をした。 5月5日、新広西派は「護党救国軍」の成立を宣言し、蔣介石討伐を発表した。同時に出撃を明らかにし、まず広東を攻略し、広東の収入を奪って経済を支え、同時に軍事的勝利をもって政治的劣勢を転換させた。5月15日、北方の馮玉祥は新広西派と合同して蔣介石を討つことを宣言し、蔣介石進攻のため出兵した。しかし、馮玉祥の配下の石友三は韓復榘とともに馮玉祥への追随を放棄し、蔣介石に帰順した。このため馮玉祥の作戦は失敗することとなった。 5月中、新広西派の部隊は二手に分かれて広東に進攻し、広東派(粤系、粤軍)を破り、広州城下まで前進した。蔣介石は湖南派(湘系、湘軍)、貴州派(黔系、黔軍)、雲南派(滇系、滇軍)等の部隊を集め広西に進攻し、新広西派を牽制した。新広西派と広東派は白泥地区(広東省深圳市)で決戦を展開し、新広西派は敗れて、新広西派の広東進攻作戦は失敗に終わった。また、北方の盟友馮玉祥の失敗を知り、新広西派は広西に退却を迫られた。しかし同時に桂林・柳州の線の新広西派はたびたび湖南派・貴州派・雲南派等の部隊に勝利していた。 蔣介石はすぐに、李明瑞・兪作柏・楊騰輝に所属する元新広西派軍を集め広東に南下し、西の広西に進攻した。李明瑞・兪作柏・楊騰輝の部隊の戦闘力は強く、梧州をすばやく攻略占領した。桂平の守将の韋雲淞は街を放棄した。新広西派はここまでで再度戦闘を行う力を失っていた。 6月27日、李明瑞所属の部隊は南寧に攻め入ったので、李宗仁・白崇禧・黄紹竑の三人は下野し、国外(香港、サイゴン、ハイフォン)に出た。新広西派勢力は敗れ、蔣介石は李明瑞・兪作柏・楊騰輝を広西省政府主席に任命した。蔣桂戦争は蔣介石の全面的な勝利に終わった。
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