道路監視
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 20:46 UTC 版)
LRDGがシワに駐留していた折に、彼らはそれ以降バルビア道路(英語版)(トリポリ・ベンガジ間道路)の「道路監視」として知られるようになった任務に参加した。そこで各巡視隊は常時の道路監視の任務に携わり、1隊が1週間から10日間に渡って道路を見張り、別の1隊が彼らを任務から解くためにそちらへ向かい、3隊目は任務を離れてシワへと戻ってゆくというものであった。道路監視の場所は大理石門の記念碑(英語版)から5マイル(8キロ)ほど離れた地であった。道路監視の巡視隊は道から2マイルほど離れた地に駐車し、各トラックは擬装用の網、その地の植生や砂で擬装を施された。日毎の夜明け前に、2名が道路から350ヤード(320メートル)ほど離れてよく擬装を施された位置についた。日中には、彼らはあらゆる車両や部隊の動きを詳細に記録し、そして夜には道路から30ヤード(27メートル)ほどの地点に移動して、いかなる種類の車両が往来しているかを音と外形から推測した。日の出に彼らは、当日の道路監視任務を引き継ぐ別の一組と交替した。 戦車群や大規模部隊の移動が見られると、彼らはシワのLRDG司令部に直ちに無線連絡し、敵が前線に到達する頃にはカイロの総司令部が相手の到来を知っているようにした。巡視隊は交替して退くと、目撃した全ての詳細をシワへと送信した。LRDGは道路監視の間に人員や車両を失うことはなかったものの、数度の近接遭遇の機会があった。3月21日には、「R1」巡視隊は夜を過ごすために監視役と彼らの車両の間に停車した、27台からなる車列とおよそ200名に取り囲まれた。道路監視が続けられる中で、別の巡視隊が地雷の敷設や機関銃による車輛への攻撃で、トリポリとベンガジ間の道路における別区間に沿って目標を攻撃した。1942年の3月2日から7月21日まで、当の道路は24時間体制で常に監視の下に置かれていた。 ガザラの戦い、そしてトブルク陥落の後に、LRDGは6月28日にシワからの撤退を余儀なくされた。「A」中隊は再補給に次いでクフラ(英語版)へ戻るためカイロへと退き、一方で「B」中隊はファイユームへと向かった。
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