巡視隊
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長距離巡視隊は、バグノルドが指揮を執る15名からなる司令部を含んでいた。3つの傘下部隊が存在した。「R」巡視隊はドナルド・ギャヴィン・スティール大尉が指揮した。「T」巡視隊はパトリック・クレイトン大尉、「W」巡視隊はエドワード・"テディ"・セシル・ミットフォード(英語版)大尉が指揮した。「T」と「W」の巡視隊が戦闘部隊で、「R」巡視隊は援護用に充てられていた。 1940年11月、長距離巡視隊は再編成され、長距離砂漠挺身隊と再命名された。6つの巡視隊にまで拡充がなされ、「T」「W」「R」に「G」「S」「Y」巡視隊が加わった。それぞれの巡視隊が同じ連隊の集団に属する予定であったが、近衛兵旅団(Guards)や義勇農騎兵団(Yeomanry)のみがそれぞれに「G」「Y」と、独自の巡視隊を編成した。「G」巡視隊はコールドストリーム近衛連隊第3大隊とスコットランド護衛連隊第2大隊からの人員で、マイケル・クライトン・スチュワート大尉が指揮した。「Y」巡視隊はノッティンガムシャー義勇農騎兵団(英語版)[要出典]からの人員をP・J・D・マクライス大尉が指揮し、ロイヤル・ノーサンバランド・フュージリア連隊(英語版)やアーガイル・アンド・サザーランド高地連隊(英語版)からの人員も加わっていた。1940年12月に「W」巡視隊は解散となり、その隊の人員は「R」と「T」巡視隊の定員を満たすために用いられ、「G」巡視隊がその車輛を受け継いだ。1941年6月には、LRDGは2個中隊に再編されていた。ニュージーランド人とローデシア人の「A」中隊が「S」「T」「R」巡視隊を備え、「B」中隊が「G」「H」「Y」を備えた。司令部部門、軍事通信・測量・軽微補修(英語版)の各部門もまた存在した。重車輛部門は、当初は4台のマーモン・ヘリントン製6トン・トラックを装備しており、各根拠地へ補給物資を輸送し、あらかじめ定められた場所へ秘密裏に補給地点を構築することで、兵站支援を提供するべく用いられた。加えて航空部門があり、ウェイコ(英語版)・ZGC-7(英語版)やYKCといった複葉機を用いて、重要人物を輸送し負傷者を退避させ、他の連絡任務をこなした。 1941年8月には砲兵部隊が、イタリア軍の要塞をより効果的に攻撃する目的で編成された。当初はQF・4.5インチ榴弾砲をマック製10トン・NR 4トラックに積載し、同道する軽戦車を装甲観測場(英語版)として用いていた。しかし、これらはクフラ(英語版)の自由フランス軍へ引き渡された。次いで部隊は25ポンド積載砲を支給された。この砲を用いて、LRDGはエル・グタフィアの要塞を攻撃し占拠する成功を収めたが、後にトラックは放棄されざるを得なくなり、実験的な試みは終了した。
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