巡視船宗谷 Japan Coast Guard(PL107)
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「宗谷 (船)」の記事における「巡視船宗谷 Japan Coast Guard(PL107)」の解説
1962年5月13-15日、随伴船に巡視船「もがみ」(PS11)を従え伊勢湾で開催される観閲式に米、英、仏、ソ連、タイの大使館付海軍武官夫妻、運輸大臣、海上保安庁長官を乗せた観閲船として参加した。海上保安庁最大の宗谷は所属船艇の旗艦、模範船として退役するまでトップの座にあった。 6月15日、日本鋼管浅野ドックに入渠し、観測機器、航空機関係の重装備を降ろしたが船体の色は観測船のままだった。8月1日、第三管区海上保安本部所属になる。3日、サケ、マス漁業監視のため北海道第一管区釧路海上保安部へ旅立った。24日、監視任務を終え函館に入港、燈台補給船時代の最後の船長だった松原船長は函館海上保安部長になっていた。松原部長の指揮のもと第一管区所属の全巡視船を集合させ宗谷のための観艦式がおこなわれた。同日午後11時、三宅島の雄山噴火の報せ受けた宗谷は急遽、東京湾に急行した。9月14日、館山に疎開した学童約2千名を島に送り届けた。 9月28日、金華山沖南東1500キロの海域でマグロ漁船「第六海進丸」から医療救助の通報が横浜海上保安部に入り出動命令が下った。横浜日赤病院の外科医と看護婦2名を乗せた宗谷は漁場へと急いだ。翌29日、同じ海域で操業中の「第六金良丸」からも急患発生との緊急連絡が入った。翌30日午後8時50分、横浜沖約1千キロの地点で「第六金良丸」会合。医師は急性盲腸炎と診断しすぐさま手術となった。同日「第六海進丸」の急患が到着、手術が終わった直後の午後11時53分、運び込まれた患者は意識不明だった。硬膜下血腫と判断した医師は上陸してからも間に合うと判断し横浜港に向かった。10月3日午前10時20分横浜港に入港、患者は手術を受け助かった。これが、宗谷が巡視船となって初めての医療救助活動だった。 1963年(昭和38年)2月、オホーツク海の流氷調査のため第一管区に派遣、この時小樽港から北杜夫と柴田鉄治が取材で乗り込んでいる。その後、4月1日北海道第一管区海上保安本部に移籍。第一管区に移籍した後の宗谷の一年のスケジュールは、12〜2月に北洋前進哨戒、3月上旬から、北海道大学と協力して流氷観測、調査。4月、観閲式に備えて浅野ドック鶴見造船所にて整備。5月、観閲式。6-7月、釧路にて医師と医療器具を積み込み北洋サケ・マス医療前進哨戒、8月、津軽海峡を中心に巡視、9月、20日間ほどの整備。10月函館ドック入り、11月、津軽海峡を中心に巡視。また、宗谷は保安庁最大の巡視船のため海洋少年団の体験航海、各地の慰霊、遺骨収集等、しばしばピンチヒッターとして使用された。 1963年10月2日、コレラの海上封鎖のため、さど(PM03)、ちふり(PM18)、すみだ(PS55)を率いて李ラインに向けて出港。11月まで、朝鮮からの密入国者の取り締まりを行った。 1964年(昭和39年)1月、ウルップ島で座礁した第八共進丸の乗組員全員を救出。2月、初代ふじ艦長に内定された本多敏治一佐を乗せオホーツク海での氷海航海訓練を行った。1964年4月6日、巡視船「てんりゅう」(PS03)が紋別港沖で流氷にはさまれて行動不能となった漁船5隻の救助作業中、流氷により行動不能になり、9日、宗谷に救出された。 1965年(昭和40年)5月、小笠原墓参団を芝浦ふ頭から乗せ父島・母島及び硫黄島にて慰霊祭を行なった。この年から小笠原諸島が返還されるまで毎年行われた。7月15日、 二代目南極観測船「ふじ」就役にともない南極観測船としての役割を正式に終える。1965年10月25日、宗谷、海鷹丸の観測をもとにした、詳細な南極海図が完成。この海図はふじの晴れの壮途に間に合うように作られた。 1966年(昭和41年)3月5日、南極観測船時代の搭載機だったS58-型ヘリコプターMH202号機が全日空羽田沖墜落事故の遺体捜索中にエンジントラブルにより海に墜落し失われた。この事故で亡くなった3人の中1人の里野光五郎機長はタロとジロを発見した時のパイロットであり、3次観測以降のエースパイロットでもあった。 1970年(昭和45年)3月16日、カムチャッカ方面を哨戒中、釧路保安部から「単冠湾へ急行せよ」と緊急指令が入った。19隻の漁船が吹雪と流氷のために遭難し、1隻は陸に乗り上げ大破した。残りの18隻中11隻は損傷しながらも流氷群から脱出したが、他の7隻は転覆行方不明2隻、船体放棄後沈没3隻、船体放棄後救助されたもの2隻、これら8隻の乗組員114人の中30人は死亡行方不明となる大惨事となった。生存者84人は流氷を渡り18日択捉島に上陸しソ連に保護された。宗谷は、だいおう、えりも、りしりと合流し救難探索及び指揮に当たった。22日午前9時、宗谷は単冠湾内でソ連警備艇から84名を引き取り、23日釧路港に残る流氷を砕氷し入港、生存者を下船させた後、再び流氷群に引き返し行方不明の2隻を探索したが成果もなく27日探索を打ち切り、汽笛を鳴らし黙祷を捧げて現場を離れた。この海難を契機に第一管区海上保安部内に流氷情報センターが設置され、流氷観測、通報体制が強化されることになった。この頃から漁民の間で「福音の使者」「北洋の守り神」といわれるようになる。 1970年4月、東京にて整備中に巡視船本来の色に塗り替える。1972年(昭和47年)3月7日、稚内市長の要請で出動し午前9時宗谷湾の流氷群に突入、北防波堤から700mまで進んだが厚さ2m以上の氷盤にはばまれ、いったん外海に脱出し午後再突入、煙突から火柱をたてながら奮闘し午後4時湾内を突破し底引漁船や貨物船16隻、午後7時、半底引漁船3隻、翌8日湾外の北防波堤付近の貨物船2隻を外海誘導に成功した。 この年から海上保安学校は半年制の普通科から、一年生の本科に改正された。教育、訓練の充実に大型の練習船による長期練習航海を実施することで、日常の船内の生活を体得でき、それがシーマンシップの育成に大きく貢献するということは、海上保安庁幹部の一致した意見だったが、現場の巡視船艇さえ十分な勢力でなく、専用の練習船など予算的に実現の見込みがなかった。この解決策として乗組員以外にも(南極観測隊員用として)多数の部屋とベッドを備える宗谷を一時的に練習船として使用する方法が採られた。初めての長期練習航海は10月から11月にかけて、三グループに別れて、舞鶴-函館間を約一週間ずつ行った。 1972年(昭和47年)から「宗谷」は海上保安学校(京都府舞鶴市所在)の練習航海で、若き海上保安官候補生を乗せて航海の実際を教える教育船としての顔を持つようになる。 1974年(昭和49年)1月10日オホーツク海の流氷が紋別陸岸から視認できるところまで接近し、11日から13日かけて急速に発達した。紋別海上保安部は漁業協同組合に出港を自重するように通達したが13日早朝に漁船1隻が強行出港したため他9隻も相次いで出港した。これを知った海上保安部は「てんりゅう」に護衛のため出動を命じた。これらの漁船は紋別沖500m付近流氷にて航行困難となり6隻は自力で脱出し、2隻は反転し紋別港に引き返したが残り2隻は反転できず、「てんりゅう」の水路啓開により辛うじて紋別港に帰港した。「てんりゅう」も反転し紋別港に向かおうとしたが、氷状が悪化し航行不能になった。15日「宗谷」はソ連から抑留漁船員を引き取って釧路に入港後、「てんりゅう」救出の要請を受け出動、この時、千歳航空基地所属のベル212型ヘリコプター「MH516号」を一時的に搭載、16日現場に到着、MH516号と協力して開氷路を作って誘導、17日氷海からの救出に成功した。 1975年(昭和50年)8月「対馬丸」海上慰霊祭に派遣され、22日に遺族が乗船、トカラ列島の悪石島沖にて午後10時12分から慰霊をおこなった。1976年(昭和51年)4月8日、最後の船長となる有安欣一船長が就任。月下氷人の愛称をつける。 1977年(昭和52年)5月8日、観閲式の後、南極観測20周年記念OB会が宗谷船上にて開催。8月1日、灯台補給船が廃止され後継船の若草が解役され、9月9日、LL01つしまが後継船として就役。新海洋秩序時代の到来により解役の話が出始める。1978年(昭和53年)3月12日、稚内港の流氷群を砕氷し、とじこめられていた漁船41隻を外洋に導いた。 1978年3月18日、ふじの5年以内の観測船引退が決まり、調査研究目的で村山元越冬隊長が訪れた。 3月22日、根室半島沖にてふじの後継艦建造計画 に関する砕氷実験をおこない、高さ二m、直径二十mの氷盤を砕氷した。1978年5月14日、海上保安庁創立三十周年の観閲式に観閲船として参加。 竣工から40年以上が経過した1978年7月3日、ついに解役が決まり、最後の任務として舞鶴海上保安学校学生の実習をかねた全国14の港を巡る「サヨナラ航海」を実施し各港で、「サヨナラ宗谷船内公開見学会」を開いた。1978年8月2日-4日西舞鶴港第2ふ頭、5日-7日門司港第2岸壁、7日-9日広島港外貿ふ頭、9日-12日高松港中央ふ頭、12日-14日神戸中突堤、15日-17日名古屋港西ふ頭、18日-19日横浜大さん橋、19日-20日東京晴海ふ頭、21日-22日塩釜港貞山ふ頭、23日-25日函館中央ふ頭、26日-27日小樽港第2ふ頭、29日-30日新潟港中央ふ頭、9月2日-3日青森港浜町ふ頭にて見学会が開催された。 7月29日函館を出港、31日当時、引退後の宗谷を誘致していた福井県の福井新港開港記念式典に参加。8月2日舞鶴港では海上自衛隊舞鶴音楽隊のファンファーレを奏で迎えられた。9月2日の青森港には17000人が押し寄せた。歓迎飛行の海上自衛隊大湊地方隊のヘリコプター2機が飛来し宗谷の飛行甲板に大湊総監・江上純一海将の「同じ海上に勤務する者として輝かしい宗谷の栄光と歴代乗組員の努力に最大の敬意を表します」というメッセージが投下された。一日船長の春日八郎(歌手)が「さよなら宗谷」を歌った。岸壁では陸上自衛隊第九音楽隊が太平洋行進曲を演奏した。 9月4日、稚内市へ最後にもう一度と、青年会議所が海上保安庁に陳情してサヨナラ航海番外編が実現することになった。9月5日、保存先が船の科学館に決まった。9月23日、天北一号埠頭に接岸した宗谷は陸上自衛隊第二師団のブラスバンドの演奏に迎えられた。翌24日、11000人の見学者を迎えた。同日の夜、稚内港を出港。9月28日午前9時、秋晴れの空に「UW1(ご幸福を)」の国際信号旗を掲げた宗谷は「蛍の光」「錨を上げて」の演奏に見送られ長年の母港だった函館港をあとにした。 1978年(昭和53年)10月2日、竹芝桟橋にて解役式を迎え退役。解役式には歴代の海上保安庁長官や宗谷の歴代船長を始め、南極観測隊員として乗り組んだ者など宗谷にゆかりある人たちが出席した。海上自衛隊音楽隊が演奏する国歌とともに、国旗、海上保安庁庁旗、長官旗がおろされ、有安船長から高橋壽夫長官に返納されて式典は終わった。 巡視船の解役式に海上保安庁長官自らが出席したのは、2017年現在でも宗谷のみである。 北海道第一管区海上保安本部に移籍した1963年から1978年の15年間で航海日数3000日以上、海難救助出動は350件以上、救助した船125隻、1000名以上の救助実績を揚げ「海の守り神」という異名をもつ事になった。 1978年11月22日、後継船としてヘリコプター搭載型巡視船「そうや」(船番号:就役当時PL01、のちPLH01)が就役し、2018年現在も本船に次ぐ海保最古参の現役巡視船として任務に当たっている。
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