巡視船宗谷 Japan Coast Guardとは? わかりやすく解説

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巡視船宗谷 Japan Coast Guard(PL107)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 09:30 UTC 版)

宗谷 (船)」の記事における「巡視船宗谷 Japan Coast Guard(PL107)」の解説

1962年5月13-15日、随伴船に巡視船「もがみ」(PS11)を従え伊勢湾開催される観閲式に米、英、仏、ソ連タイ大使館海軍武官夫妻運輸大臣海上保安庁長官乗せた観閲船として参加した海上保安庁最大宗谷所属船艇旗艦模範船として退役するまでトップの座にあった6月15日日本鋼管浅野ドック入渠し、観測機器航空機関係重装備降ろした船体の色は観測船のままだった。8月1日第三管区海上保安本部所属になる。3日サケマス漁業監視のため北海道第一管区釧路海上保安部旅立った24日監視任務終え函館入港燈台補給時代最後の船長だった松原船長函館海上保安部になっていた。松原部長指揮のもと第一管区所属の全巡視船集合させ宗谷のための観艦式おこなわれた同日午後11時、三宅島雄山噴火報せ受けた宗谷急遽東京湾急行した9月14日館山疎開した学童約2千名を島に送り届けた9月28日金華山沖南東1500キロ海域マグロ漁船第六海進丸」から医療救助通報横浜海上保安部入り出動命令下った横浜日赤病院外科医看護婦2名を乗せた宗谷漁場へと急いだ。翌29日、同じ海域操業中の「第六金良丸」からも急患発生との緊急連絡入った。翌30日午後8時50分、横浜沖約1千キロ地点で「第六金良丸」会合医師急性盲腸炎診断しすぐさま手術となった同日第六海進丸」の急患到着手術終わった直後午後1153分、運び込まれ患者意識不明だった。硬膜下血腫判断した医師上陸してからも間に合うと判断し横浜港向かった10月3日午前10時20横浜港入港患者手術を受け助かった。これが、宗谷巡視船となって初めての医療救助活動だった。 1963年昭和38年2月オホーツク海の流氷調査のため第一管区派遣、この時小樽港から北杜夫柴田治が取材乗り込んでいる。その後4月1日北海道第一管区海上保安本部移籍第一管区移籍した後の宗谷一年スケジュールは、122月北洋前進哨戒3月上旬から、北海道大学協力して流氷観測調査4月観閲式備えて浅野ドック鶴見造船所にて整備5月観閲式6-7月、釧路にて医師医療器具積み込み北洋サケ・マス医療前進哨戒8月津軽海峡中心に巡視9月20日間ほどの整備10月函館ドック入り11月津軽海峡中心に巡視また、宗谷保安庁最大巡視船のため海洋少年団体験航海各地慰霊遺骨収集等、しばしばピンチヒッターとして使用された。 1963年10月2日コレラ海上封鎖のため、さど(PM03)、ちふり(PM18)、すみだ(PS55)を率いて李ライン向けて出港11月まで、朝鮮からの密入国者の取り締まり行った1964年昭和39年1月ウルップ島座礁した第八共進丸の乗組員全員救出2月初代ふじ艦長内定された本多敏治一佐乗せオホーツク海での氷海航海訓練行った1964年4月6日巡視船てんりゅう」(PS03)が紋別港沖で流氷はさまれ行動不能となった漁船5隻の救助作業中、流氷により行動不能になり、9日宗谷救出された。 1965年昭和40年5月小笠原墓参団を芝浦ふ頭から乗せ父島母島及び硫黄島にて慰霊祭行なったこの年から小笠原諸島返還されるまで毎年行われた7月15日二代目南極観測船「ふじ」就役にともない南極観測船としての役割正式に終える。1965年10月25日宗谷海鷹丸観測をもとにした、詳細な南極海図が完成。この海図はふじの晴れ壮途に間に合うように作られた。 1966年昭和41年3月5日南極観測船時代搭載機だったS58-型ヘリコプターMH202号機が全日空羽田沖墜落事故遺体捜索中にエンジントラブルにより海に墜落し失われた。この事故亡くなった3人の中1人里野五郎機長タロとジロ発見した時のパイロットであり、3次観測以降エースパイロットでもあった。 1970年昭和45年3月16日カムチャッカ方面哨戒中、釧路保安部から「単冠湾急行せよ」と緊急指令入った19隻の漁船吹雪流氷のために遭難し、1隻は陸に乗り上げ大破した残り18隻中11隻は損傷しながらも流氷群から脱出したが、他の7隻は転覆行方不明2隻、船体放棄沈没3隻、船体放棄救助されたもの2隻、これら8隻の乗組員114人の中30人死亡行方不明となる大惨事となった生存者84人は流氷渡り18日択捉島上陸しソ連保護された。宗谷は、だいおう、えりも、りしりと合流し救難探索及び指揮当たった22日午前9時、宗谷単冠湾内でソ連警備艇から84名を引き取り23日釧路港に残る流氷砕氷入港生存者下船させた後、再び流氷群に引き返し行方不明の2隻を探索した成果もなく27日探索打ち切り汽笛鳴らし黙祷捧げて現場離れた。この海難契機第一管区海上保安部内に流氷情報センター設置され流氷観測通報体制強化されることになったこの頃から漁民の間で「福音使者」「北洋守り神といわれるうになる1970年4月東京にて整備中に巡視船本来の色に塗り替える1972年昭和47年3月7日稚内市長の要請出動し午前9時宗谷湾の流氷群に突入、北防波堤から700mまで進んだ厚さ2m上の氷盤はばまれ、いったん外海脱出し午後再突入煙突から火柱たてなが奮闘し午後4時湾内突破し底引漁船貨物船16隻、午後7時、半底引漁船3隻、翌8日湾外の北防波堤付近貨物船2隻を外海誘導成功したこの年から海上保安学校半年制の普通科から、一年生本科改正された。教育訓練充実大型練習船による長期練習航海実施することで、日常船内の生活を体得でき、それがシーマンシップ育成大きく貢献するということは海上保安庁幹部一致した意見だったが、現場巡視船艇さえ十分な勢力でなく、専用練習船など予算的に実現見込みがなかった。この解決策として乗組員以外にも(南極観測隊員用として)多数部屋ベッド備え宗谷一時的に練習船として使用する方法が採られた。初めての長期練習航海10月から11月にかけて、三グループ別れて舞鶴-函館間を約一週間ずつ行った1972年昭和47年)から「宗谷」は海上保安学校京都府舞鶴市所在)の練習航海で、若き海上保安官候補生乗せて航海実際教え教育としての顔を持つようになる1974年昭和49年1月10日オホーツク海の流氷紋別陸岸から視認できるところまで接近し11日から13日かけて急速に発達した紋別海上保安部漁業協同組合出港自重するように通達したが13日早朝漁船1隻が強行出港したため他9隻も相次いで出港した。これを知った海上保安部は「てんりゅう」に護衛のため出動命じた。これらの漁船紋別500m付近流氷にて航行困難となり6隻は自力脱出し、2隻は反転し紋別港引き返した残り2隻は反転できず、「てんりゅう」の水路啓開により辛うじて紋別港帰港した。「てんりゅう」も反転し紋別港向かおうとしたが、氷状が悪化し航行不能になった15日宗谷」はソ連から抑留漁船員を引き取って釧路入港後、「てんりゅう救出要請を受け出動、この時、千歳航空基地所属ベル212ヘリコプター「MH516号」を一時的に搭載16日現場到着、MH516号と協力して開氷路を作って誘導17日氷海からの救出成功した1975年昭和50年8月対馬丸海上慰霊祭派遣され22日遺族乗船トカラ列島悪石島沖にて午後10時12分から慰霊おこなった1976年昭和51年4月8日最後の船長となる有安欣一船長就任月下氷人愛称をつける。 1977年昭和52年5月8日観閲式の後、南極観測20周年記念OB会宗谷船上にて開催8月1日灯台補給船が廃止され後継船若草が解役され9月9日、LL01つしまが後継船として就役新海秩序時代到来により解役の話が出始める。1978年昭和53年3月12日稚内港流氷群を砕氷し、とじこめられていた漁船41隻を外洋導いた1978年3月18日、ふじの5年以内観測船引退が決まり調査研究目的村山越冬隊長が訪れた3月22日根室半島沖にてふじの後継艦建造計画 に関する砕氷実験おこない、高さ二m、直径二十mの氷盤砕氷した。1978年5月14日海上保安庁創立三十周年観閲式観閲船として参加竣工から40年以上が経過した1978年7月3日、ついに解役が決まり最後の任務として舞鶴海上保安学校学生実習をかねた全国14の港を巡る「サヨナラ航海」を実施し各港で、「サヨナラ宗谷船内公開見学会」を開いた1978年8月2日-4日西舞鶴港第2ふ頭5日-7日門司港第2岸壁7日-9日広島港外貿ふ頭9日-12日高松港中央ふ頭12日-14日神戸中突堤15日-17日名古屋港西ふ頭18日-19日横浜大さん橋19日-20日東京晴海ふ頭21日-22日塩釜港貞山ふ頭23日-25日函館中央ふ頭26日-27日小樽港第2ふ頭29日-30日新潟港中央ふ頭9月2日-3日青森港浜町ふ頭にて見学会開催された。 7月29日函館出港31日当時引退後宗谷誘致していた福井県福井新開港記念式典参加8月2日舞鶴港では海上自衛隊舞鶴音楽隊ファンファーレ奏で迎えられた。9月2日青森港には17000人が押し寄せた歓迎飛行海上自衛隊大湊地方隊ヘリコプター2機が飛来し宗谷飛行甲板大湊総監江上純一海将の「同じ海上勤務する者として輝かし宗谷栄光歴代乗組員努力最大敬意表します」というメッセージ投下された。一日船長春日八郎歌手)が「さよなら宗谷」を歌った岸壁では陸上自衛隊第九音楽隊太平洋行進曲演奏した9月4日稚内市最後にもう一度と、青年会議所海上保安庁陳情してサヨナラ航海番外編実現することになった9月5日保存先船の科学館決まった9月23日天北一号埠頭接岸した宗谷陸上自衛隊第二師団ブラスバンド演奏迎えられた。翌24日、11000人の見学者迎えた同日の夜、稚内港出港9月28日午前9時、秋晴れの空に「UW1(ご幸福を)」の国際信号旗掲げた宗谷は「蛍の光」「錨を上げて」の演奏見送られ長年母港だった函館港をあとにした。 1978年昭和53年10月2日竹芝桟橋にて解役式を迎え退役。解役式には歴代海上保安庁長官宗谷歴代船長始め南極観測隊員として乗り組んだ者など宗谷にゆかりある人たちが出席した海上自衛隊音楽隊演奏する国歌とともに国旗海上保安庁庁旗長官旗がおろされ有安船長から高橋壽夫長官返納されて式典終わった巡視船の解役式に海上保安庁長官自らが出席したのは、2017年現在でも宗谷のみである。 北海道第一管区海上保安本部移籍した1963年から1978年15年間で航海日数3000日以上、海難救助出動350件以上、救助した125隻、1000名以上の救助実績揚げ「海の守り神」という異名をもつ事になった1978年11月22日後継船としてヘリコプター搭載型巡視船「そうや」(船番号就役当時PL01、のちPLH01)が就役し、2018年現在も本船に次ぐ海保最古参現役巡視船として任務当たっている。

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