宗谷 (船)
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宗谷(そうや)は、海上保安庁の砕氷船。巡視船としての船番号は PL107。前身の大日本帝国海軍特務艦[10]時代も含めて昭和期の多くの歴史的事件に関わり[注釈 2]、特に1956年から1962年まで南極観測船(初代)を務め日本の南極観測事業の礎を築いたことで広く知られる。
注釈
- ^ そうや進水後、退役するまでの間は初代宗谷と区分されていた[1]。
- ^ 戦時中だけでもラバウルの戦い、ミッドウェー海戦、第一次ソロモン海戦、ガダルカナル島の戦い、トラック島空襲、復員輸送など[11]。
- ^ 他に鵜来型海防艦(おじか型巡視船)志賀があったが[12]、1998年に解体されて現存しない。
- ^ 特殊な船舶まで含めた場合は潜水艇しんかいが揚陸された状態で保存されている。
- ^ 敷島型戦艦三笠は、ワシントン海軍軍縮条約によって軍艦籍から除かれた後、岸壁に固定され「工作物」の扱いとなっている。
- ^ 宗谷が実施した測量や調査は、ビスマルク諸島(ニューアイルランド島、ニューブリテン島)、ソロモン諸島(ブカ島、ブーゲンビル島、ショートランド諸島)、中部太平洋諸島など。
- ^ ロシア語ではアクセントのないоは、アに近いのでヴァラチャーイェヴィェッツが近い発音。赤井謙一『世界の砕氷船』50頁。
- ^ 天領丸、民領丸の記録はなし[24]。
- ^ 前任は軽巡洋艦「神通」副長。
- ^ 前任は「占守型海防艦の国後艦長(海軍辞令公報では8月11日付)。
- ^ 4月10日付で第八特別根拠地隊は第八根拠地隊に改編され[63]、宗谷も引き続き同部隊に所属する[64]。
- ^ 船団本隊は、5月28日サイパン発予定であった[74]。
- ^ 支援部隊:第七戦隊(第1小隊〈熊野、鈴谷〉、第2小隊〈三隈、最上〉)、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)、タンカー日栄丸[79]。
- ^ 第八艦隊は1942年(昭和17年)7月14日に新編された[91]。南東方面(パプアニューギニアやソロモン諸島など)の作戦を担当する“外南洋部隊”であり、従来この方面を担当していた“南洋部隊”(第四艦隊)は“内南洋部隊”に改称した。
- ^ 明陽丸沈没により、400名弱が戦死した[95]。
- ^ 宗谷は明陽丸救援に向かい、さらに不時着した一式陸上攻撃機の搭乗員を救助したという[96]。
- ^ この日、初代特務艦長・山田雄二大佐が第20駆逐隊(夕霧、朝霧、天霧、白雲)司令としてガダルカナル島に向かう途中、ヘンダーソン飛行場から飛来したSBDドーントレスの急降下爆撃により戦死した[99]。
- ^ 宗谷が爆雷を投下したという証言もあるが、宗谷が爆雷を搭載したのは横須賀に戻ってからという証言もある[108]。
- ^ 天谷大佐の前任は第34駆逐隊司令。久保田大佐は横須賀鎮守府付となって退艦した。後日、軽巡名取艦長として戦死した。
- ^ 2月14日、姉妹船「民領丸」がアメリカ潜水艦フラッシャー (USS Flasher, SS-249) に撃沈された。
- ^ 深夜パラオへ向かう途中、との元乗組員の証言あり。座礁した後、爆雷20発を放棄[118]。
- ^ 空母機動部隊の艦上機による夜間空襲は、照明弾を使用する(タラント空襲など)。
- ^ エンタープライズはTBF 12機を夜間攻撃に投入し、1機を喪失した。
- ^ 天谷大佐更迭後、福島一男大尉が艦長を代理したと元乗組員の証言有り[120]。なお、天谷嘉重大佐は1944年(昭和19年)12月16日に拳銃自殺した[121]。
- ^ 宗谷を護衛した駆逐艦は雪風(第16駆逐隊)との第四梯団輸送指揮官だった山本陸軍大尉の証言がある。ただし、実際の雪風はリンガ泊地やタウイタウイ泊地で行動していた[127]。
- ^ このとき天領丸や陸軍輸送船団を護衛していたのは第7駆逐隊(曙、潮)と[128]、駆逐艦野風(途中まで)であった[129]。
- ^ この時点でのバラオ級潜水艦のパーチ (USS Perch, SS-313) は真珠湾で修理中。神津丸を撃沈したのはパーゴ (USS Pargo, SS-264) だったとも。
- ^ 入港と同時に海軍工廠より修理担当官が来船し、最優先で修理がおこなわれた。宗谷は石炭で動ける貴重な存在になっていたためである。
- ^ イギリス海軍の太平洋艦隊に所属する航空母艦フォーミダブル、ヴィクトリアス、インプラカブル、インディファティガブルを基幹とする機動部隊で、アメリカ海軍の指揮下で行動する[139]。
- ^ 第37任務部隊は女川港を空襲、港に残った大浜は攻撃を受けて大破、着底した[141]。
- ^ 終戦時には運送艦として部類されていたが戦後は混乱のためか砕氷艦と表記している資料も存在する。昭和20年10月12日付 海軍広報 第5203号 アジア歴史資料センター レファレンスコードC12070530500で閲覧可能。
- ^ 土井艦長と宗子は宗谷退役時に再会することになる。
- ^ 艦艇から船に。これ以降、青函連絡船宗谷丸と誤解されるようになる。
- ^ 元ロシアの客船アルグン号、日露戦争の最中拿捕され羅州丸と改名、1904年5月から1945年3月に戦没するまで灯台視察船として従事する。
- ^ 1955年12月26日、後継船として大阪商船若草丸が購入され八代目灯台補給船「若草」として灯台補給船の任務と号鐘を継承した[168]この号鐘は現在、広島の海上保安大学校史料館にて保存されている。
- ^ 宗谷は建造当初から二重船底であった。
- ^ 当時灯台部長だった土井智喜は解任式の最後に灯台を廻り馴染みしわが船の南極へ航く栄を祝わんと和歌を一首詠んだ。
- ^ 現在はコットンハーバーに跡地がある。
- ^ 改造費用4億6,730万円、そのうち7,000万は若草購入費[168]。
- ^ 日本鋼管はこの経験を基に、後に砕氷艦ふじ、しらせ(初代)、しらせ(2代)砕氷型巡視船PLH01そうや、PM15てしおを建造することになる。
- ^ 片舷110度傾いても転覆することなく、必ず復原するように設計された[173]。
- ^ 海鷹丸は10月28日に出港、海洋調査を行った後、ケープタウンで合流。
- ^ 宗谷の強運の拠り所とされていた「宗谷神社」だがGHQに接収された時撤去されていた[177]。
- ^ 宗谷の艦内神社には富士山本宮浅間大社の浅間大神が祀られておりこれは、ふじ、新旧しらせに受け継がれた。
- ^ 別名、不夜城宗谷と呼ばれていた『昭和基地物語』71頁。
- ^ ソ連観測隊は砕氷船オビ号とその姉妹船レナ号、観測船コオペラツィア号の3隻で構成されていた[180]。
- ^ 現在は「大利根水道」として親しまれている[182]。
- ^ 米国のグレイシャー、ウェスト・ウインド、ベルギーのポーラハブ、ポーラシルケル、オーストラリアのサラダン、ソ連オビ[194]。
- ^ 当時放送されていた月光仮面第3部マンモスコング編の背景に試運転中の宗谷が偶然写り込んでいるシーンがある。
- ^ 106、107号と名付けられた。
- ^ 201、202号と名付けられた。
- ^ トチ、アク、ミヤと名付けられた[208]。
- ^ 見送り船は若草、あつみ、うみかぜ、うらかぜ、むつき
- ^ 米国務省係官[205]。
- ^ 宗谷の船底部は建造当初から二重構造で強固な耐氷策が取り入られて堪航性は十分と判断され経費節約上この部分は補強工事対象外とされた[217]。
- ^ 302号と名付けられた。
- ^ 海洋生物の資源調査は海鷹丸が別行動で担当することになった。
- ^ 当時の日赤にもない最新の医療設備が調っていたと医師は証言した[226]。
- ^ 衰弱した患者に輸血が必要だったが、あいにくと輸血用血液を持ってきてなかった。だが乗組員数名が献血を名乗り出て輸血することができた。
- ^ 同日、そうやが日本鋼管鶴見造船所にて進水。
出典
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- ^ funenokagakukanのツイート(1395584155254202374)
- 1 宗谷 (船)とは
- 2 宗谷 (船)の概要
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