大泊_(砕氷艦)とは? わかりやすく解説

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大泊 (砕氷艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 07:36 UTC 版)

大泊
竣工直後、神戸港での「大泊」[1]
基本情報
建造所 川崎造船所[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 砕氷艦[3]
母港 舞鶴
1922年12月1日以降 横須賀[4]
艦歴
計画 大正9年度計画(八八艦隊案[5]
起工 1921年6月24日[6]
進水 1921年10月3日[7]
竣工 1921年11月7日[2]
除籍 1945年9月15日[8]
その後 1949年10月解体開始[9]
1950年3月解体終了[9]
要目
排水量 2,700英トン[10][11]
1938年 2,946トン[12]
基準排水量 公表値 2,330英トン[2]
常備排水量 2,830英トン[13]
全長 約211 ftin (64.31 m)[14]
垂線間長 200 ft 0 in (60.96 m)[10]
公表値 60.95m[2][注釈 1]
最大幅 50 ft 6 in (15.39 m)[10]
公表値 15.24m[2]
深さ 8.38m[15][注釈 2]
吃水 18 ft 3 in (5.56 m)[10]
公表値 6.40m[2][注釈 3]
ボイラー 片面煙管戻火式缶5基(1923年時)[10]
円缶5基(1931年時)[11]
主機 直立3気筒3段レシプロ2基[12]
推進 2軸[10]
出力 4,000hp[10]
4,500hp[16]
速力 13.5ノット[10][注釈 4]
公表値 13.0ノット[2]
燃料 石炭庫容量 500英トン[10](508トン[12])
乗員 竣工時定員78名[17]
兵装 竣工時[10]
40口径安式8cm単装砲 1門
1938年[12]
40口径三年式8cm高角砲 1門
毘式7.7mm機銃2挺
最終時
8cm砲 1門[14]
25mm機銃2挺[9]
13mm機銃6挺[9]
爆雷[14]
搭載艇 4隻[10]
その他 2mの砕氷能力[1]
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大泊(おおどまり[18]/旧仮名:おほどまり[13]、おほとまり[19][注釈 5])は日本特務艦にして[20]砕氷艦である[21][16]。 日本で建造された最初の砕氷艦でもある[22][注釈 6]。艦名は亜庭湾北部の大泊港にちなむ[13]。同型艦はない。海人社は本艦を「間宮に匹敵する功労艦」と評価している[29]

計画

砕氷船(砕氷艦)は[30]、通常の船舶とは異なり、特殊な構造をもっている[31][32]大日本帝国海軍(以下、日本海軍)は、北洋警備の重要性に対する認識はあったものの、高い砕氷能力を持った艦の建造には至らなかった。日露戦争日本海海戦では[33]バルチック艦隊所属のアドミラル・ウシャコフ級海防戦艦2隻が連合艦隊降伏した[34]。このうち「アドミラル・セニャーヴィン」が海防艦見島」と改名された[注釈 7]。日本海軍は第一次世界大戦終盤の1918年後半に[26]舞鶴海軍工廠において[25]、「見島」を砕氷艦に改造した[注釈 8]。しかし海防戦艦からの改造艦であり、間に合わせでしかなかった[39]

1920年(大正9年)1月下旬、ニコラエフスク[40](尼港)に駐屯中の日本軍は、パルチザンの攻勢に対し海軍陸戦隊の派遣を要請した[41]。日本政府は救援隊の派遣を検討するが、具体的な動きは2月中旬であった[42]。その前にニコラエフスクは包囲されてしまう[43]尼港事件[44][注釈 9]戦艦三笠」と砕氷艦「見島」が幾度か派遣されたが[49][50]、「見島」の能力不足のため氷原を突破できず[51][注釈 10]、ニコラエフスクに到達できなかった[53]。救援隊がニコラエフスクに到着したのは[54]捕虜となった日本兵や[55]日本人ふくめ民間人が虐殺された後であった[56]。このことが教訓となり、大正9年度計画の能登呂型給油艦のうち1隻を砕氷艦に変更する[57]。大正10年度軍備補充費[19]で本艦が建造された。

艦型

ロシアの砕氷船「ドブルニア・ニキチッチ」

日本海軍は海防戦艦から砕氷艦に改造した「見島」の運用から、貴重な経験を得た[58]。新造砕氷艦「大泊」の艤装は、ロシアの砕氷船「ドブルィニャ・ニキーティチ」を調査した結果を基にしていた[59]。ところが、羅針艦橋が開放式で防寒防風波浪への対応には天幕を張るだけだったこと、冬季における寒さ対策が十分でなかったこと、船体の強度が不十分だったことなどから、後に羅針艦橋を全周密閉式として室内に木材を張りガラス窓としたり[60]、中央構造物から艦尾に達するプープデッキを増設して居住区とし、さらに艦首に衝角状の突起を設けて艦首の強度を高める[61]などの対策が施された。

約1mの厚さの氷盤を割るときは、艦首を氷盤の上に乗り上げてから、艦首部の海水タンクにポンプで海水を満たし、艦自身とタンク内の海水の重量で氷を上から押し曲げて割っていた[注釈 11]。2mの砕氷能力を持つとされたが、実際の砕氷能力や連続砕氷能力はこれより小さいはずだった[63]

燃料は石炭であった[64]

艦歴

川崎造船所で[65]戦艦加賀」などと共に建造された[66]。日本海軍に於いて、「大泊」は最初の“新造”砕氷艦であった[注釈 12]。同時に、川崎造船所にとっても砕氷艦は初めて建造する艦種であった[68]。1921年(大正10年)6月24日に起工[69]。同年8月2日、日本海軍は艦船令を改正し、特務艦の区分に「砕氷艦」という艦種を追加した[22](翌3日、特務艦艇類別標準を改正)[67]。10月3日、進水した[70]。11月7日に竣工した[71][注釈 13]

竣工後、舞鶴鎮守府、次いで横須賀鎮守府[72]に籍を置いた。春季から夏季にかけて函館大湊[73]横須賀に帰投し[注釈 14]、修理や乗員の休養および交代を行った時、観艦式[76]などの特別行事以外は、一貫して北洋で行動した[77]海軍休日時代における日本海軍唯一の砕氷艦として[69]、北方全般の警備、航路啓開[78]、科学調査、災害救援活動[注釈 15]、漁業の保護など、各方面で多大な貢献を果たした[80]。その航海がドキュメンタリー映画になった程であった[81][注釈 16]サガレン州派遣軍の時期に乗艦していた近藤至誠(陸軍歩兵大佐)が撮影したもので、国立映画アーカイブで視聴することが出来る[16]

また、1930年から1941年までの間、断続的にオホーツク海での流氷原の調査を行なった[83]。1933年から1934年にかけて阿頼度島の噴火で新島が出来た際には[84]、本艦が派遣されて乗組員が火山島を探検した[85]

太平洋戦争前に大湊警備府附属[73]となり、戦時中は主として宗谷海峡や亜庭湾で行動[73]し、ソ連船の臨検などを行った。1945年7月20日、補修整備のため横須賀に入港[73]し同地で終戦を迎えた。

1938年3月、日本海軍は本艦の老朽化、砕氷能力の低さ、そして砕氷艦が一隻しかないことを問題視した。新砕氷艦の建造と合わせ、2隻の耐氷型貨物船を購入し砕氷艦に改造する計画が検討された。しかし、結局海軍は「地領丸」を特務艦「宗谷」に改装したのみで、⑤計画の新砕氷艦(恵山)は建造中止になった。その「宗谷」もあくまで測量艦であった[86]。同艦は南洋部隊(第四艦隊[87]や外南洋部隊(第八艦隊[88]に編入されて中部太平洋やソロモン諸島での測量任務に従事、本格的な砕氷艦に改造されたのは太平洋戦争終結後であった[86]。本艦に代わる砕氷艦は終戦まで出現しなかった[77]

1945年12月1日、横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に指定された[89]が、艤装や缶の損耗が著しく整備に多額の費用がかかるため使用されず、日本鋼管鶴見造船所の岸壁に係留され、1946年5月7日には特別輸送艦の指定を解かれた[90]。後に長浦港に曳航されて係留された[77]。砕氷能力があるため海上保安庁の北洋用巡視船として使用する計画もあったが、修理費がかさむために見送られ、1949年10月から1950年3月にかけて解体された[91]。本艦の退役後、冬季の北洋警備を担う砕氷船は長らく存在しなかった。1960年にようやく耐氷改造された旧海軍海防艦つがる」が第一管区海上保安本部に配属、本格的な砕氷性能を有する巡視船「宗谷」(上記の特務艦宗谷と同一の船)が南極観測任務を解かれ第一管区に配備されるのは1963年4月のことである。

艦長

艤装員長
  1. 國生行孝 大尉:1921年10月1日[92] - 1921年11月7日[93]
特務艦長/艦長
  1. (心得)國生行孝 大尉:1921年11月7日[93] - 1921年11月15日[94]
  2. 吉武純蔵 中佐:1921年11月15日[94] - 1922年11月10日[95]
  3. 太田質平 中佐:1922年11月10日[95] - 1923年10月15日[96]
  4. 佐藤英夫 中佐:1923年10月15日[96] - 1924年10月25日[97]
  5. 毛内効 中佐:1924年10月25日[97] - 1925年7月1日[98]
  6. (兼)平山栄 大佐:1925年7月1日[98] - 1925年8月1日[99] (本職:北上艦長)
  7. 石川眞吾 中佐:1925年8月1日[99] - 1926年11月1日[100]
  8. 大野功 中佐:1926年11月1日[100] - 1927年12月1日[101]
  9. 山縣少介 中佐:1927年12月1日[101] - 1928年3月25日[102]
  10. (兼)小山泰治 中佐:1928年3月25日[102] - 1928年5月1日[103] (本職:大湊防備隊司令)
  11. 曾我清市郎 中佐:1928年5月1日[103] - 1929年5月1日[104]
  12. 山田定男 中佐/大佐:1929年5月1日[104] - 1930年12月1日[105]
  13. 鬼俊民 中佐:1930年12月1日[105] - 1931年11月2日[106]
  14. 草川淳 中佐:1931年11月2日[106] - 1932年11月15日[107]
  15. 居谷吉春 中佐:1932年11月15日[107] - 1933年11月15日[108]
  16. 塚原胤一 中佐/大佐:1933年11月15日[108] - 1934年11月15日[109]
  17. 宮里秀徳 中佐/大佐:1934年11月15日[109] - 1935年11月15日[110]
  18. 森田一男 中佐:1935年11月15日[110] - 1936年11月2日[111]
  19. 江口松郎 中佐/大佐:1936年11月2日[111] - 1938年12月15日[112]
  20. 門前鼎 大佐:1938年12月15日[112] - 1939年11月15日[113]
  21. 村山清六 大佐:1939年11月15日[113] - 1940年11月1日[114]
  22. 今村幸彦 大佐:1940年11月1日[114] - 1942年6月15日[115]
  23. 岡恒夫 大佐:1942年6月15日[115] - 1943年12月5日[116]
  24. 千葉次雄 大佐:1943年12月5日[116] - 1944年2月26日[117]
  25. 千知波長次 大佐:1944年2月26日[117] - 1945年10月5日[118][注釈 17]、以後1946年1月8日まで特務艦長および艦長の発令無し。
  26. 戸村清 第二復員官:1946年1月8日[119] - 1946年3月20日[120]、以後艦長の発令無し。

文化への影響

脚注

注釈

  1. ^ #日本補助艦艇物語pp.388-389では60.05mになっている。
  2. ^ #終戦時の日本海軍艦艇p.101では、深さ20 ft 0 in (6.10 m)となっているが、吃水に比べて明らかに値が小さい。
  3. ^ #日本補助艦艇物語pp.388-389では6.04mになっている。
  4. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第四その二「昭和十三年三月調艦艇要目等一覧表 その二 潜水艦、水雷艇、特務艦、特務艇、新造艦船」では14ノットとされている。ただし、この年の特務艦の速力は他艦を含めて全て小数点以下は記載されていない。
  5. ^ 「濁点は現代仮名遣いではほとんどの場合濁音に付されるが、それ以前の仮名遣いでは必ずしも付されない。例えば、法令に濁点が付されるようになったのは1927年(昭和2年)からであり、(以下略)」(Wikipedia濁点から引用)。
  6. ^ 「大泊」の建造前に日本海軍はロシア海軍からの戦利艦である海防艦「見島」を[23][24]、砕氷船[25](砕氷艦)[26]に改造しており、「大泊」が日本海軍における最初の砕氷能力をもった軍艦ではない。また本艦就役前にロシア政府から砕氷船「バイカル」を借り受け[27]、日本軍の監督下で運用している[28]
  7. ^ 海防戦艦(装甲海防艦)「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は[24]、海防艦「沖島」となった[35][36]
  8. ^ 「見島」は砕氷艦として運用されたが[37]、類別上は「海防艦」である。また特務艦に“砕氷艦”の項目が新設されたのも、1921年(大正10年)8月3日であった[22]。さらに「見島」の軍艦および海防艦からの除籍と特務艦への変更は、1922年(大正11年)4月1日付であった[38]
  9. ^ 尼港事件における[45]、虐殺の発生は[46]、パルチザンが尼港を占領した1920年3月以降[47]、5月下旬にかけて発生した[48]
  10. ^ 「見島」が嚮導艦として氷を割っても、後続する「三笠」の航行も困難を極めた[52]
  11. ^ この方式は、海上自衛隊の砕氷艦(南極観測船)「しらせ (初代) 」でも採用した[62]
  12. ^ 大正十年八月三日海軍省達第百五十三號特務艦艇類別標準中改正[67] 特務艦 工作艦 運送艦 碎氷艦(特務艇略)(編者註)特務艦大泊ノ建造始メテ成ル是蓋シ我海軍ニ於ケル碎氷艦ノ嚆矢ナリ
  13. ^ ―碎氷艦― 大泊(おほどまり)[69] 基準排水量2,330噸、長さ60.95米、幅15.24米、平均吃水6.4米、速力13節、備砲8糎1門、起工大正10年6月24日、進水大正10年10月3日、竣工大正10年11月7日、建造所神戸川崎造船所 ― 我國唯一の碎氷艦、特務艦には、ほかに工作艦明石(9,000噸、昭和13年6月29日進水)、朝日(明治33年竣工)がある。(記事おわり)
  14. ^ 1923年(大正12年)9月1日、横須賀港停泊中に関東地震に遭遇している[74]。横須賀では上陸中の乗組員が不祥事を起こしたことも[75]
  15. ^ 関東大震災[74]昭和三陸地震など[79]
  16. ^ 死線を越えて撮影せる國寶的映畫六千尺[82] 映畫/△軍艦大泊が小樽より䩼靻海の堅氷を粉碎し亞港に難航する實況(以下略)
  17. ^ 充員召集を解除されたことによる自動解職。

出典

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  2. ^ a b c d e f g #昭和15年6月25日現在 内令提要 10版 追録第7号原稿画像7、艦船要目公表範囲
  3. ^ #海軍制度沿革巻八p.104、大正十年八月三日(達一五四) 特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 運送艦ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |砕氷艦| |大泊|(原文は縦書き)
  4. ^ #写真日本の軍艦第13巻p.51。
  5. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.271
  6. ^ 大正10年6月24日付 発・川崎造船所社長松方幸次郎、宛・艦政本部長電報。アジア歴史資料センター レファレンスコード C08050173600 で閲覧可能。
  7. ^ 大正10年10月3日付 発・呉鎮守府司令長官、宛・海軍大臣電報。アジア歴史資料センター レファレンスコード C08050173600 で閲覧可能。
  8. ^ #写真日本の軍艦第13巻p.47。
  9. ^ a b c d #写真日本の軍艦第13巻p.52。
  10. ^ a b c d e f g h i j k #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第二その三「大正十二年三月調艦艇要目等一覧表 その三 潜水艦、水雷艇、特務艦」
  11. ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第三その三「昭和六年三月調艦艇要目等一覧表 その三 潜水艦、水雷艇、特務艦」
  12. ^ a b c d #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第四その二「昭和十三年三月調艦艇要目等一覧表 その二 潜水艦、水雷艇、特務艦、特務艇、新造艦船」
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  14. ^ a b c #終戦時の日本海軍艦艇p.101
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参考文献

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