政治的な反響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
尼港事件に関して、日本国内で大々的に報道されるようになったのは、6月、救援隊が現地入りし、凄惨な全容が明らかになってからである。 すぐに議会で取り上げられ、野党憲政会の激しい政府批判がはじまった。この年5月の衆議院選挙で、与党立憲政友会は圧勝していたが、野党側の言い分では、「与党は尼港事件を隠して解散、総選挙に踏み切った」というのである。原首相が「惨劇が起こったのは不可抗力だった」と言ったとの報道があり、「責任逃れではないのか」と追及された。「治安維持に十分な兵力を置いていないにもかかわらず、居留民の引揚げを考慮しなかったのは不注意だ」というところから、ついには、「チェコ軍団の救援目的は達したにもかかわらず、なんのために兵を残したのか。過激派の勢力をそぐこともできなければ、日本人居留民の生命財産を守ることもできなかったではないか」と、シベリア出兵そのものへの批判になった。 この年、7月号の中央公論には、尼港事件に関して、二つの論評が出ている。吉野作造は、「真の責任者は明白に政府殊に軍事当局者にある」としながら、野党が事件を利用して、内閣の倒壊を企てていることへの批判に重点を置いている。三宅雪嶺もやはり、「反対党がなにかといへば総辞職を迫るのも褒めた事ではない」としているが、こちらは、政府側が責任を負うことを言明しないでおいて、「権力争奪に利用するな」とばかりいうのは誤っていると、政府側に点が辛い。 田中義一陸軍大臣に対しても責任問題が追及されると、田中は陸軍大臣として陸軍について全責任があるが尼港事件については陸軍に過失はないと答えたため激しく糾弾され、1920年8月には進退伺を行うこととなった。その後、田中義一は国務大臣としての責任をとり「断じて臣節を全うす」と称して陸軍大臣の職を辞した。そして、占領宣言をした北樺太をのぞけば、シベリア出兵は撤退の方向にむかう、という大方針は変わらなかったのである。 帝国海軍は十分な砕氷艦を持たなかったために、在留邦人を見殺しにする結果となったことを受け、事件翌年には砕氷艦大泊を進水させている。
※この「政治的な反響」の解説は、「尼港事件」の解説の一部です。
「政治的な反響」を含む「尼港事件」の記事については、「尼港事件」の概要を参照ください。
- 政治的な反響のページへのリンク