政治的な姿勢
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「フリードリヒ・アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・デア・マルヴィッツ」の記事における「政治的な姿勢」の解説
政治家としてのマルヴィッツは、古プロイセン貴族を代表する立場にあった。彼はこれらの貴族の多くと同様に、シュタイン・ハルデンベルク改革 (Prussian reforms) の激しい反対者で、ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク (Ludwig Yorck von Wartenburg) のように貴族の特権と、その貴族に支えられた国家、プロイセンの危機を見出していたのである。彼の見解によれば、この王国は貴族が支配し続けるべきであった。 1811年、マルヴィッツはレーブスの建白書を起草した。そこで彼は、ラント・レーブス (Lubusz Land) の領主層から国王へ、「我々の古い、名誉あるブランデンブルク=プロイセンが流行かぶれのユダヤ的国家になるべきか」質問させている。マルヴィッツがこれらの改革を「流行かぶれのユダヤ的国家」と見なしたのは、それが農民を領主との世襲的臣従関係から解き放ち、貴族の荘園を市民も購入できるようにしたためである。それに対し、彼は自身の法的な立場のために政治宣伝を行い、貴族的な大土地所有は同時に支配者たるホーエンツォレルン家にとり、譲ることのできない権力基盤であると述べた。マルヴィッツの意見によれば、これらの改革はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が即位した時に、貴族層がかつてプロイセン国王と交わし、王に彼らの権利を委ねた不文律的な契約関係を破るものであった。 しかしプロイセンの改革はフリードリヒ2世の頃から計画されてきたものであり、シュタインとハルデンベルクによって部分的に実践に移された。マルヴィッツはこれによって、貴族より遥かに多くの資本を持っていた上昇志向の市民層が、所有地の買い占めによって貴族を先祖伝来の土地から追い出してしまうのではないかと危惧した。つまり、彼は土地所有にプロイセン貴族の権力基盤を見ていたのである。自身の反ユダヤ的な表現は、ハルデンベルクの協力者や助言者の中に居たユダヤ教徒への当て付けであった。これをもってマルヴィッツは、自由化と民主化に向けた一歩の全てをユダヤ人の影響のせいとする、当時広まっていた見方を支持していた。 彼は貴族層が、プロイセンの古い伝統に従って従来通りに軍全体の士官職を占め、国の社会構造の中で優位を保ちつづけなくてはいけないと確信していた。これは多くの貴族の関心に沿うものであった。プロイセンにおいては、土壌が痩せて収穫に乏しかったので、相続時の所領の分与が不経済だったのである。それゆえ貴族の一家では、兄弟のうち若年の者が出世するには士官の道へ進むしかなかった。 マルヴィッツは高齢に達しても、これらの見解を堅持していた。晩年に至ってなお、シュタイン・ハルデンベルク改革がもたらした結果と戦ったのである。それゆえ、テオドール・フォンターネは彼についてこう書いている。 「マルヴィッツ家はこの国に多くの勇敢な軍人と、硬い気骨のある人物を与えてきたが、その登場が我々の国内生活の転機となったフリードリヒ・ルートヴィヒ・アウグスト・フォン・デア・マルヴィッツほど、勇敢で確固たる者は居ない。マルヴィッツの時代になるまで、プロイセンに政治的な論争は存在しなかったのだ。」 マルヴィッツの同時代人、フリードリヒ・エアハルト・フォン・レーダー (de:Friedrich Erhard von Röder) は1807年、その回想録にこう記す。 「彼は非凡な人物、そして軍人であり、肉体的にも精神的にも力強く、騎士道的で理性と洞察力に富み、才気に満ち、元気で深い知識を備えていた。真のキリスト教徒であった。」 著名なジャーナリストで、ドイツ帝国初期の主導的な反ユダヤ主義者の一人であったハインリヒ・フォン・トライチュケは1880年、マルヴィッツの性格を以下のように描写した。 「ブランデンブルクのユンカーの典型にして最も勇敢な士官の一人であり、軍でも最高の騎手で、無遠慮、無愛想そして頑固であった。(中略)燃えるような愛国心に満ちるも、厳しい偏見に満たされ、貴族としての誇りの中で非常に愚直に振舞い、敵対者の道義的な意見をほとんど信じることができなかった。」 上述の偏見と貴族としての誇りは要するに、とうに社会の現実にそぐわなくなっていたにも関わらず、マルヴィッツが保ち続けた古い「道義的な」立場であった。彼が愛した祖国は貴族の支配するプロイセンであって、1848年以前に民主化運動に勤しんだ民主的なドイツではない。貴族と民衆の双方が並び立ち、ナポレオンと戦ったにも関わらずである。 そのため歴史学者のゴードン・クレイグはマルヴィッツを、市民的な自由主義に対する領邦的封建主義の代表者と見なし、彼の功績をこう評している。 「シュタインは敗北(彼が部分的にしか実現できなかった希望を、そう呼ぶとするならのことではあるが)の中にあってもドイツの政治の舞台で支配的な人物であり、プロイセンが西欧諸国のとった道へやはり踏み込むという、希望の象徴であった。彼は新しいドイツの自由主義の父祖であり、その『遺産』はドイツで政治運動の力が動き出そうとするたびに呼び起され、新たに出版された。しかし恐らく両者のうち、いずれにせよ『プロイセンの終わり』と題した本の背景において、より意義が深いのはマルヴィッツかも知れない。」 後の国王、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が晩年のマルヴィッツを激賞したこと自体が、1871年以降のドイツ帝国において営農貴族層が果たすことになる、将来的な役割を予見させるものであった。同帝国では1890年以降、貴族階級の利害関係から農業者同盟 (de:Bund der Landwirte) が結成されていた。1918年より後でも、生前のマルヴィッツが代表していた中部ドイツの貴族的土地所有者は、政治的な影響力を保持する。それは、特にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が1932年と1933年、ノイデック (Ogrodzieniec, Warmian-Masurian Voivodeship) で緊急命令を発した時、顕著に表れた。 マルヴィッツは生前、新しいものに効果的に抗った。そうすることによって多くの点で、マントイフェル家、ハンマーシュタイン家やオルデンブルク=ヤヌシャウ家といった「ユンカー」の責任でもある、プロイセンの伝統的な自由主義の、将来的な滅亡の予兆となったのである。
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