稚泊連絡船とは? わかりやすく解説

稚泊連絡船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 14:30 UTC 版)

稚泊連絡船(稚泊航路)
稚内桟橋(北防波堤)に接岸する亜庭丸
概要
現況 廃止
起終点 起点:稚内駅・稚内桟橋駅稚内港
終点:大泊港駅(大泊港)
駅数 2駅
運営
開業 1923年5月1日 (1923-05-01)
廃止 1945年8月25日 (1945-8-25)
所有者 鉄道省運輸通信省運輸省
路線諸元
路線総延長 210.0 km (130.5 mi)
航路距離(営業キロ
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大泊港駅と大泊港に停泊する亜庭丸

稚泊連絡船(ちはくれんらくせん)は、1923年から1945年まで、日本の鉄道省により北海道稚内樺太大泊の間で運航されていた航路鉄道連絡船)である。

航路概要

  • 稚内 - 大泊間:167.0 km営業キロ:210.0 km)
  • 所要時間:8時間(1928年[1]、1934年12月当時)
  • 運賃:1928年に一等7円50銭、二等5円、三等2円50銭[2]

宗谷海峡は冬になると流氷で閉ざされるため、就航船には砕氷船が使用された。厳冬期の大泊では氷上で旅客・貨物の取り扱いをすることもあった。

鉄道連絡船の性格上、宗谷本線の優等列車と接続するダイヤを組み、1938年からは稚内側では列車が船に横付けできるよう、稚内駅構内扱いに稚内桟橋駅という仮乗降場が設けられていた。また大泊側も桟橋上に大泊港駅が設けられ、樺太東線と接続していた。なお、稚内から樺太への定期航路は稚泊連絡船の他に北日本汽船経営の稚斗航路(稚内 - 本斗間)があり、こちらは樺太西線と接続していた。

沿革

稚泊連絡船が開かれる前、樺太への交通は、富山県の伏木港、青森県の青森港、北海道の小樽港函館港稚内港との間に逓信省樺太庁が設定した命令航路によっていた。国有鉄道の宗谷線が稚内まで延びたことで、樺太庁鉄道と国有鉄道を結ぶ鉄道省の連絡線が開かれた[3]。これが稚泊連絡船である。

  • 1922年大正11年)11月1日宗谷線稚内駅まで延伸開業[4]
  • 1923年(大正12年)
  • 1924年(大正13年)7月25日:壱岐丸の砕氷船改造工事が完了し正式配属。以後は2船体制で夜行1日1便の運航を開始(冬季は昼行便。12月偶数日、1-3月月間12往復)。
  • 1925年(大正14年)12月17日対馬丸が野寒岬灯台北西0.7海里(1.3km)の地点(東経141度38分、北緯45度27分)で座礁。
  • 1927年昭和2年)12月8日:砕氷貨客船亜庭丸就航。
  • 1928年(昭和3年)12月26日:宗谷線の稚内駅 - 稚内港駅間が延伸開業。稚内港駅が新設[5]
  • 1931年(昭和6年)2月2日:大寒波による流氷により壱岐丸が大難航、船体に著しい損傷。応急修理を施したが、5月11日の上り便を最後に運航休止となる。
  • 1932年(昭和7年)12月5日:砕氷貨客船宗谷丸就航。
  • 1937年(昭和12年)2月13日 - 2月25日:稚内港が流氷により入港不能となり小樽 - 大泊間の航路が臨時に開設される。
  • 1937年(昭和12年)6月1日:稚内側の急行ダイヤ改正に合わせて夜行便廃止。
  • 1939年(昭和14年)2月5日 - 2月27日:稚内港が流氷により入港不能となり、小樽 - 大泊間の航路が臨時に開設される。 
  • 1945年(昭和20年)

船舶

砕氷客船

壱岐丸(初代)
青函航路から臨時転属、1923年5月1日就航。1924年7月25日正式配属、砕氷船に改造。寒波による船体損傷により1931年5月11日終航、売却[6][7]
対馬丸(初代)
1923年4月19日関釜航路から転属発令。砕氷船に改造後、6月8日就航。1925年12月17日擱座沈没[6][7]

客船(夏季運航)

田村丸
青函航路から転属、1926年4月16日就航。1927年10月21日終航、売却。
対馬丸喪失から亜庭丸就航までの代船、夏季限定運航[6][7]
高麗丸
関釜航路から転属、1931年6月2日就航。1932年10月31日終航、売却。
壱岐丸終航から宗谷丸就航までの代船、夏季限定運航[6][7]

砕氷客貨船

亜庭丸
対馬丸代船として建造。1927年12月8日就航、1945年6月20日終航。転属先の青函航路で同年8月10日空襲沈没[6][7]
宗谷丸
壱岐丸代船として建造。1932年12月22日就航、1945年8月24日終航。戦後は青函航路に転属[6][7]

砕氷補助汽船(送迎船)

利尻丸[6]

水陸連絡設備

全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML
旧稚内桟橋(北防波堤ドーム
旧大泊桟橋(写真中央)

大泊桟橋

航路開設当初は連絡船の繋留できる岸壁がなく、大泊駅近くの連絡船待合所(大泊営業所)から1.2km沖合に錨泊する連絡船まではで、海面が結氷する厳冬期は徒歩やソリで接続していた。1928年(昭和3年)8月に大泊港の南から橋梁を渡って沖に突き出す形の突堤が完成し、大泊駅から桟橋まで1.6kmの臨港線を敷設。11月には突堤上の連絡船待合所が竣工、12月から大泊港駅として開業した[8]

現在もコルサコフ南埠頭北緯46度37分12.7秒 東経142度45分40.1秒 / 北緯46.620194度 東経142.761139度 / 46.620194; 142.761139 (コルサコフ南埠頭(旧大泊桟橋)))として使用されており、連絡船と同じ航路のSASCO社ペンギン33(稚内 - コルサコフ間)が発着している。[9](2019年度は運休)

稚内桟橋

接続駅として稚内桟橋駅が設けられた[8]

現在、防波堤は稚内港北防波堤ドームとして保全が図られ、連絡船の業績を顕彰する稚泊航路記念碑北緯45度25分11.6秒 東経141度40分54.8秒 / 北緯45.419889度 東経141.681889度 / 45.419889; 141.681889 (稚泊航路記念碑(旧稚内桟橋)))が建てられている。

脚注

  1. ^ 樺太庁鉄道事務所・編集発行『樺太の鉄道旅行案内』(1928年)、104頁。荒山正彦監修・解説『シリーズ明治・大正の旅行 第I期 旅行案内書集成』第13巻(北海道旅行案内/樺太の鉄道旅行案内)、ゆまに書房、2014年に収録、614頁。
  2. ^ 『樺太の鉄道旅行案内』105頁。『シリーズ明治・大正の旅行』第I期615頁。
  3. ^ 樺太庁鉄道事務所・編集発行『樺太の鉄道旅行案内』(1928年)、103-104頁。荒山正彦監修・解説『シリーズ明治・大正の旅行 第I期 旅行案内書集成』第13巻(北海道旅行案内/樺太の鉄道旅行案内)、ゆまに書房、2014年に収録、613-614頁。
  4. ^ a b 『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 266-267頁
  5. ^ 『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 90-91頁
  6. ^ a b c d e f g 古川達郎 2001, pp. 85–94, §1.10.6 稚内-大泊連絡(稚泊航路・その1)
  7. ^ a b c d e f 古川達郎 2001, p. 351, 付表3「主要航路における鉄道連絡船就航期間」
  8. ^ a b 古川達郎 2008, pp. 52–56, §3.水陸連絡施設の変遷 1.稚泊航路
  9. ^ http://hs-line.com/ 北海道サハリン航路株式会社

参考文献

  • 樺太庁鉄道事務所・編集発行『樺太の鉄道旅行案内』(1928年)。荒山正彦監修・解説『シリーズ明治・大正の旅行 第I期 旅行案内書集成』第13巻(北海道旅行案内/樺太の鉄道旅行案内)、ゆまに書房、2014年に収録。
  • 田中和夫(監修)『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線、北海道新聞社(編集)、2002年7月15日、90-91,266-267頁。ISBN 978-4-89453-220-5ISBN 4-89453-220-4 
  • 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』(2訂)成山堂書店、2001年。ISBN 4-425-92141-0 
  • 古川達郎『鉄道連絡船細見』JTBパブリッシング、2008年。ISBN 978-4-533-07319-9 
  • 『鉄道連絡船のいた20世紀』イカロス出版、2003年。ISBN 4-87149-484-5 

関連項目

外部リンク


稚泊連絡船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 15:35 UTC 版)

田村丸」の記事における「稚泊連絡船」の解説

1922年大正11年11月1日当時宗谷線浜頓別経由稚内まで達した対岸樺太庁鉄道では、樺太東線が既に大泊から樺太庁所在地豊原経てオホーツク海側栄浜海岸まで達していた。翌1923年大正12年5月1日、この両鉄道をつなぐ稚泊連絡船航路が、当時青函航路所属していた元関釜連絡船 壱岐丸初代)就航によって開設され同年6月8日からは同じく関釜連絡船で、稚泊航路用に砕氷船化工事施した対馬丸初代)本格投入し、壱岐丸はいったん青函航路戻った。翌1924年大正13年7月28日には、砕氷船化工事施工済み壱岐丸初代)稚泊航路本格就航させ、砕氷船2隻による、4月12月毎日夜行1往復12月隔日昼行1往復1~3月1ヵ月昼行12往復運航した。ところが1925年大正14年12月17日対馬丸初代)夜間稚内港入港の際、吹雪針路誤り稚内港外野寒布岬灯台北西座礁全損する事故発生したこのため既に函館1年以上係船されていた田村丸入渠整備のうえ、流氷恐れのない1926年大正15年4月16日から11月8日まで稚泊連絡船として運航し、翌1927年昭和2年)も4月7日から10月21日まで稚泊連絡船として運航し1日1往復運航支えその後再び函館係船された。稚泊航路にはこの後1927年昭和2年12月8日対馬丸の代船として建造され本格的砕氷船亜庭丸就航した

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「稚泊連絡船」を含む「田村丸」の記事については、「田村丸」の概要を参照ください。

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