稚松会
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「野田清 (海軍軍人)」の記事における「稚松会」の解説
野田は旧会津藩士族出身で父は野田寅之進である。野田家は戊辰戦争後に北海道へ移住した。海軍将官となった野田は稚松会の評議員を務めている。
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稚松会
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町野は郷党の育成に熱意があり、稚松会理事を務め若松の自宅を開放していた。なお陸士同期の西義一も同会の会員である。
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稚松会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:40 UTC 版)
稚松会は1912年(明治45年)3月に設立され1926年(大正15年)に認可を受けた財団法人である。会名の"稚松"は会津藩の本城があった"若松"を意味し、幼い松が大木となることを寓意して、後進の成長を願ったのである。前身は山川浩が組織した「軍人団話会」や渡部鼎が組織した「同志会」で、総裁には会津松平家当主を戴く規定になっており、本部を東京の松平子爵邸に、支部を若松に設けた。会員は任意の旧会津藩領出身者及び旧会津藩に由緒のある陸海軍高等武官で、軍学校に教官として在籍するものが委員を務めていた。 会員は月給の100分の1(時期によって異動あり)を納め親睦を図るほか、会津中学、喜多方中学在校生などから軍学校への志願者を勧誘し、受験対策を行うなど後進の育成にあたった。またこの学力増進策によって、旧制高校などへ進学するものもいた。設立時の正規会員は190余名である。軍学校への志願者が「ほぼ皆無」といわれたほど激減していた時期もあったが、1937年(昭和12年)12月時点で軍学校に在籍する将校生徒は47名である。内訳は、出身中学が会津中学31名、喜多方中学6名、その他は福島県外の中学出身で、在籍校は東京陸軍予科士官学校25名、陸軍士官学校本科15名、陸軍経理学校2名、海軍兵学校6名であった。1945年(昭和20年)の解散時における会員数は「約700名に達せり」である。 会員には旧斗南藩領出身の者もいた。日本海海戦で戦艦砲術長を務めた和田幸次郎や、第一次世界大戦で第一南遣枝隊機関長を務めた大沼龍太郎などである。ただし、直接の出身地を問わず、入会資格を有する人物のすべてが入会していたわけではない。太平洋戦争期であれば、師団長、軍令部課長、警備隊司令の役職にあった中将、少将、大佐は非入会であり、この三名は会津会にも加入していない。ただしその兄弟は会津会や稚松会の会員である事例もあった。 なお各界で立身した人物たちを中心に、経済的な面から会を支える賛助員の制度が設けられていた。賛助員には上記の池上、石塚、日下(義)、鈴木、下坂、辰野、橋爪、前田、松江、森のほか、神戸で海運業を営んだ佐藤勇太郎、会津会で主要な役割を担った澤全雄(大日本製糖技師長)、 鳥羽・伏見の戦いで討死した大砲隊頭林権助安定、白井五郎太夫の直系子孫である林権助、白井新太郎や、避戦派の藩士であった河原善左衛門の息子である河原勝治(日本郵船船長)、藩勘定頭であった赤羽治平の息子である赤羽克己もいる。山田英夫は会員かつ賛助員であった。 財団の残余財産は主として南満州鉄道の社債で、会津中学、喜多方中学の後援会に移管された。 ウィキメディア・コモンズには、稚松会に関連するカテゴリがあります。 組織 総裁 - 松平保男 会長 - (設立時)出羽重遠、(認可時)柴五郎、(解散時)両角三郎 副会長 - (設立時)樋口喜吉、(認可時)下平英太郎、(解散時)常盤盛衛 若松支部長 - 斎藤清(海兵28期。軍令部参謀、海軍中佐) 評議員 - (設立時)山川健次郎、飯沼関弥(会津松平家家宰。飯沼貞吉の弟で、飯沼一省の父) 幹事 - (設立時)杉浦小八(工兵大佐)、赤羽佑之(航空兵大佐)、二村光三(海軍主計中佐)、福井重記など 委員 - 小林賢蔵(海軍教授、海兵理科)、小松八四郎など 主な会員 (原則としてWikipediaに記事が立項されている人物のみを掲載する。) 元帥 畑俊六 大将 畑英太郎、西義一 中将 芳賀栄次郎、野口坤之、鈴木一馬、横山勇、新妻雄、井深健次、佐藤勇助、野田清、高橋伊望、樋口修一郎、原田覚 少将 松江豊寿、奥田重栄、黒河内信次、小山満雄、武川寿輔、石井常造、秋月胤逸、日下操、佐藤直、高山輝義、三ツ木秀治、柴平四郎、野澤北地、庄司巽、簗瀬真琴、平向九十九、佐藤脩、雪下勝美、美濃部貞功、鹿目善輔、柏崎治(連合艦隊軍医長)、荒川信(連合艦隊主計長) 佐尉官 町野武馬、藁谷勇三郎、芳賀信政、大塚寅雄、名越透、加藤丈夫(太平洋戦争開戦時の参謀本部英米班長)、柴有時、平石弁蔵、花見侃(戦後陸将)、星半三郎、片桐酉次郎、国府尽平、花見弘平、折笠重康、草刈英治、相田俊二(海兵61期首席)、高畑辰雄 満州国陸軍中将 藤井重郎、和田勁 会創設前または資料が残る1937年以降の任官者など 松平容大、森雅守、佐藤房隆、長谷川戍吉、猪俣甚弥、 渋川善助、角田秀松、 湯浅竹次郎、美濃部正、風間万年、雪下熊之助、深尾弘、上崎辰次郎
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