渡部鼎とは? わかりやすく解説

渡部鼎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/28 16:38 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
渡部 鼎
生誕 1858年10月13日
死没 (1932-07-18) 1932年7月18日(73歳没)
出身校 大学南校
カリフォルニア大学医学部
職業 陸軍軍医少佐
開業医
衆議院議員

渡部 鼎(わたなべ かなえ、安政5年9月7日1858年10月13日) - 昭和7年(1932年7月18日)は、日本の医師、政治家。会陽医院院長。衆議院議員を2期務めた。野口英世の左手を手術し、野口に医学の道へ進むきっかけを与えた恩師として知られる。

概要

陸奥国河沼郡野沢(現・福島県耶麻郡西会津町)出身。父は漢学者・渡部思斎。父に漢学を、高島嘉右衛門藍謝堂(通称高島学校)で洋学を学び、大学南校に進んで英学を、さらに岩佐純に師事して医学を修める。明治10年(1877年)警察医、陸軍軍医試験に合格。西南戦争新撰旅団第四大隊附軍医試補[1]として従軍した。明治18年(1885年)女性の髪型について経済面衛生面から束髪を広める運動を行うほか、尾崎行雄田口卯吉らと英語会を組織したり、大日本衛生会、東京医会に属して活動した[2]

明治19年(1886年)にカリフォルニア大学医学部に留学し、卒業後の明治21年(1888年)、サンフランシスコで開業した。渡部は海外で医師として開業した日本人の嚆矢と推測されている[3]。父の死に伴い明治23年(1890年)に帰国し、会津若松市で会陽医院(渡部医院)を開業。

旧会陽医院(野口英世青春館

明治25年(1892年)、当時高等小学校の生徒であった野口清作(後の野口英世)の不自由な左手を手術した。これがきっかけで医学の素晴らしさを知った野口は、自分も医学の道へ進むことを決意し、高等小学校を卒業した後は会陽医院の書生となって住み込みで働きながら、医術開業試験を受けるために上京するまでの約3年半にわたって医学の基礎を熱心に学んだ(野口英世の項目を参照)。

軍医として、日清戦争および日露戦争にも出征した。福島県の地域医療に力を尽くしたほか、明治35年(1902年)の第7回衆議院議員総選挙では若松市選挙区で立憲政友会から立候補し当選。厚生行政の分野で活動した。明治39年(1906年)には上京し、青山南町(現・港区南青山)で日本初のラジウム治療専門医院を開業したが、胃病のため大正6年(1917年)に帰郷し、桂林寺町で再度開業。

娘2人がロバート・W・アーウィンの2人の息子とそれぞれ結婚した[4]。孫の一人は第二次大戦で戦死、もう一人の孫アーウィン・ユキコは指圧師となり、英語による指圧の本のほか、自伝『フランクリンの果実』(文藝春秋社、1988.5.1)を上梓した[4]

軍医

大阪鎮台歩兵第8連隊副官、大阪医学校教頭、大阪医事研究会会長、東京憲兵第一大隊医官、軍医学会幹事などを歴任し、陸軍三等軍医正(軍医少佐)にて予備役となっている。稚松会会員。

栄典

脚注

  1. ^ 出征新撰旅団編制人員表明治10年7月
  2. ^ a b 渡邊鼎君 衆議院議員陸軍二等軍醫正『立身致富信用公録. 第12編』(国鏡社, 1903)
  3. ^ 『会津の英学』「渡部鼎」
  4. ^ a b Robert Walker IrwinPhotoguide.jp Articles
  5. ^ 『官報』第928号「叙任」1886年8月4日。

参考文献

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「渡部鼎」の関連用語

渡部鼎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



渡部鼎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの渡部鼎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS