砕氷船化工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:09 UTC 版)
「対馬丸 (連絡船・初代)」の記事における「砕氷船化工事」の解説
この工事では、従来からの船首を切り取り、新たに船首楼付き、長さ45フィート(13.716m)の堅牢な船首を取り付けるもので、船首水線以下の傾斜角は水平に対し26度の砕氷型船首となった。また、前進時に氷が舵に当たらないよう、舵前方の船尾船底中心線上に鋼製のベントラルフィンを取り付け、後進時の舵保護のため、舵頭材を船尾水面下まで鋼製保護材で被覆した。さらに水線付近の外板を全周にわたり二重張りとして耐氷性を向上させた。 防寒対策としては、外舷各室の内張内に断熱材を詰め、暖房設備も強化したほか、覆甲板船尾甲板室側面の露天甲板を舷側まで丸窓付きの鋼板で覆い、中央の甲板室側面開放の遊歩廊も舷側を角窓と丸窓の付いた鋼板で被覆した。操舵室は時期不詳ながら、関釜連絡船時代に既に端艇甲板から1層上の甲板に移設されてはいたが、依然開放的な造りであったため、全周を本格的に板張りとガラス窓で囲って防寒対策とした。この工事では、さらに前部貨物艙直上の正甲板に“蚕棚”式ではない 3等雑居室が設けられたが、船尾正甲板の3等船室は依然“蚕棚”式の2段雑居室のままで、3等定員は計357名となり、1、2等定員に変化はなく総定員は439名となったが、翌1924年(大正13年)には490名に増加している。これらの工事で、新造時要目に比べ、全長は270フィート6インチ(82.4484m)から283フィート(86.2584m)と約4m伸び、喫水も12フィート6インチ(3.81m)から14フィート(4.2672m)に、総トン数も1,679トンから1,839.43トンへ増加した。 砕氷船化工事完了した対馬丸は1923年(大正12年)6月6日稚内へ回航され、6月8日から就航し、代船壱岐丸は6月9日函館に戻った。
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