端艇甲板
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:51 UTC 版)
航海船橋の下が端艇甲板で、前方の操舵室直下には甲板部高級船員居室と無線通信室の入った甲板室があり、ここからは上の操舵室へも下の1等船室区画へも屋内階段経由で行き来できたが、操舵室への屋内階段設置は国鉄船舶としては初めてであった。端艇甲板の両舷には8隻の救命ボートと、右舷前方に1隻の伝馬船がそれぞれボートダビットに懸架されており、中央には煙突が1本、その煙突の前方、1、2等食堂の屋根の部分のみ食堂の天井高さを高くするため914mm高くなっており、その中央部には更に屋根型の天窓が設置されていた。後方には後部マストが立ち、後端には操舵室同様両舷側まで張り出した後部船橋が設置されていた。 翔鳳丸型はバルト海航路の連絡船を手本としたため、かの地で行われているように、港外で回頭し、後進で入港できるよう船首舵が装備され、その操舵はこの後部船橋のテレモーターからも可能で、ここには磁気コンパスも装備されていた。船首舵はある程度の長い距離を相当の速力で後進する場合には有効であったが、青函航路では、翔鳳丸型就航に合わせ、出力400馬力クラスの補助汽船4隻を配属のうえ、翔鳳丸型は前進のまま入港し、岸壁直前で補助汽船の助けを借りて右回頭する着岸操船法がとられたため、この船首舵を有効に使う機会に恵まれず、その後の青函連絡船でも、船首舵は第二青函丸に装備された以外は装備されなかった。しかし、後部船橋は岸壁停泊中、車両積卸しを目視できるため、車両積卸し時の船体横傾斜を抑えるヒーリング装置の遠隔操縦ハンドルがここに設置され、こちらはその後も継承され、“ポンプ操縦室”と名を変えて、1977年(昭和52年)、青函連絡船として最後に建造された石狩丸(3代目)まで受け継がれた。
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端艇甲板
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:44 UTC 版)
端艇甲板には、屋上が上記の航海船橋となる小規模な甲板室があり、この前面も、直上の操舵室前面からの続きで、前方が円弧状に丸く張り出しており、さらにその前側に、両舷を繋ぐ屋根付きガラス窓付きの遊歩廊が設けられたため、その幅約1.2mが、操舵室前面より円弧状のまま前方に張り出した。このため操舵室が端艇甲板室前面より1.2m後退して設置された外観となった。この甲板室には船長室、甲板部・機関部・通信部の高級船員居室と浴室、トイレ・洗面所が設けられたほか、甲板室の左舷船尾側には無線通信室が配置された。 この甲板室の後方には別棟の小さな甲板室があり、内部は左舷が非常用発電機室、右舷が電動送風機室となっていた。煙突は4本あり、端艇甲板両舷側寄りに片舷2本ずつ、いずれも太い煙突が若干後傾して立ち上がっていた。各煙突の外側4ヵ所と、4本の煙突に囲まれた中央部に1ヵ所、煙突群の後方にも3ヵ所の電動送風機室が設置されていた。端艇甲板両舷側には各舷5隻ずつ救命艇が懸架されていたが、煙突があるため、各舷、煙突の前に1隻、煙突の間に1隻、煙突の後ろに3隻で、両舷で10隻となり、右舷最前部のみ発動機付きであった。救命艇の懸架列の船首側両舷側には「TOYA」の電飾標示もあった。後方の船体中心線上には通常型の1本柱の後部マストがやはり後傾して立ち、最後部には積載車両の積卸し作業を目視しながらヒーリングポンプの遠隔操作ができる箱型の後部操縦室が設置されていた。
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端艇甲板
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 22:57 UTC 版)
覆甲板の甲板室の屋上が端艇甲板で、その前端近くに、前側に船長室、後ろ側に1等航海士室の入った甲板室があり、そのすぐ後方には、その直下に設置された覆甲板から正甲板へ降りる階段の採光のための天窓が設置されていた。その後方には1等特別室の入った独立した甲板室が設置されていた。この特別室には左舷側に1段寝台が、後壁を背に長椅子ソファーが置かれ、椅子とテーブル、更に右舷後方にはトイレも設置され定員は2名で、右舷側に出入口が設けられていた。その後ろは90cm高く持ち上げた1等食堂の屋根で上部に天窓があり、両側面にはステンドグラス入りの窓が取り付けられていた。その後ろは煙突で、煙突の両舷には船尾方向へ向けて覆甲板両舷の遊歩廊へ降りる階段が設置されていた。煙突より後部の両舷には、それぞれ2隻ずつ端艇が懸架され、船体中心線上には2等食堂改装の2等雑居室の天窓、機関室天窓、2等出入口スペースから正甲板へ降りる階段の天窓と続いていた。
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端艇甲板
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 15:47 UTC 版)
操舵室直下の端艇甲板室は幅約14.5m、操舵室より後方では12mと船体幅より狭く、前後長も23m弱と小規模なもので、前方の操舵室直下には船長室はじめ甲板部高級船員室と浴室・トイレがあった。それより後方は2等寝台室区画で、中央に前後方向の幅4.5mの広い廊下があり、前方では廊下の中央部に2m幅の洗面室が配置され、廊下突き当りにはトイレが設けられ、この廊下の右舷側に2等A寝台室が5室、左舷側には2等A寝台室4室と最前部に非営業の特別室1室が設けられた。廊下中ほどの中央部床面には幅約1.6m、長さ4mの吹き抜けがあり、この吹き抜け前方から後方に向けて降り、遊歩甲板2等出入口広間に至る幅1mの階段が設置され、寝台室利用客の乗下船通路となった。またこの吹き抜け階段の天井には採光用の天窓が設置された。 国鉄では1955年(昭和30年)7月1日、当時の1等寝台車の需要減と2等寝台車の需要増しによる需給不均衡解消のため、全ての1等寝台車を2等寝台車に格下げした。青函連絡船では、これに遅れること約1年の1956年(昭和31年)6月1日、1等寝台を2等A寝台に格下げし、2等寝台を2等B寝台としていたが、本船の寝台は一応旧1等寝台相当の2等A寝台であった。とはいえ、各寝台室の床面積は10.6 m2と洞爺丸型の7.8m2より広かったが、洞爺丸型の定員4名の2段寝台から6名の2段寝台となり、かえって窮屈になった。また特別室も1段寝台定員2名ながら洞爺丸型のようなバス・トイレ付ではなくなった。 なお、洞爺丸型では、この寝台室区画に配置されていた機関部と無線部の高級船員居室は、車両甲板右舷舷側へ移り、無線通信室も既述の通り、檜山丸型と同様、操舵室との連携容易な1層上の航海甲板の操舵室後ろ隣に移った。 この甲板室後端から約5mの間隔を置いて、檜山丸型と同じ太短い煙突を屋上に載せた甲板室があった。この甲板室の中央部は機関室囲壁で、その左舷側に電池室、右舷側には非常用発電機室が配置され、消音器はその中に収まっていた。 停泊中の車両の積卸し作業時、車両重量による船体傾斜を抑制するため、舷側タンク内の海水を対側のタンクへ船底のポンプで移動させるヒーリング操作を行うが、このポンプを遠隔操縦するポンプ操縦室が、車両積卸しを目視できる端艇甲板後端に設置されていた。 このほか、端艇甲板の名称の起源である端艇(救命艇)が後述するよう片舷5隻ずつ、重力型ダビットに懸架されていた。
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