石狩丸とは? わかりやすく解説

石狩丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/11/24 07:36 UTC 版)

石狩丸(いしかりまる)は、日本の鉄道連絡船。かつて青函航路に就航していた。




「石狩丸」の続きの解説一覧

石狩丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 06:38 UTC 版)

石狩丸 (初代)」の記事における「石狩丸」の解説

1945年昭和20年3月1日 - 起工三菱重工横浜造船所1946年昭和21年7月6日 - 竣工 1946年昭和21年7月23日 - 就航進駐軍専用船指定 1947年昭和22年4月 - 前部デッキハウスに進駐軍供食設備将官設置12月12日 -【石狩丸難航吹雪を伴う強い西風の中 進駐軍函館RTO命令1119函館出航難航のすえ三厩湾錨泊後、翌日青森1949年昭和24年3月 - 主機換装三菱神戸式1段減速歯車衝動反動タービン2,250軸馬力2台)、発電機増設50kVA 2台から3台へ(三菱重工横浜造船所1950年昭和25年12月2日 - レーダー装備 1951年昭和26年4月29日 - 沖停泊発電機始動タービン爆裂し操缶手死亡 1952年昭和27年4月1日 - サンフランシスコ講和条約発効による占領終了前に進駐軍専用船指定解除1954年昭和29年9月26日 - 洞爺丸台風来襲の日、1201便として、強風の中1840函館第2岸壁着岸した。しかしさらに強まった風で係留索は切断され2015分自然離岸し、2025防波堤内第2航路上に錨泊する形となり沈没免れた9月28日 - 変80便(函館第1岸壁16時40分発 青森第1岸壁2150分着)で復帰 1957年昭和32年2月 - ボートダビット取替函館ドック1958年昭和33年7月 - デッキハウス撤去車両甲板放水設置、客載車両渡船から車両渡船改造総トン数2,913.1トンとなる(函館ドック1959年昭和34年6月 - ストーカー装備二重底改造函館ドック1965年昭和40年9月30日 - 211便(青森第3岸壁定刻57分遅れの16時57分発 函館定刻20時30分着のところ有川桟橋うねり強く沖待ちの後 函館第3岸壁10月1日8時01分着)にて終航。 1965年昭和40年11月27日 - 三菱商事売却

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石狩丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:14 UTC 版)

渡島丸 (2代)」の記事における「石狩丸」の解説

1988年昭和63年7月から9月にかけて北海道 広尾町開催され十勝海洋博覧会十勝港第3埠頭展示公開され夜間はシップホテルとしても使用された。同年11月大阪陸運倉庫会社の酒本商事に4億円で売却され11月30日尾道に向け函館出港した。酒本商事は、関西国際空港工事ホテルシップとして使用するため、収容人数800人の個室化や大浴場会議室特定郵便局設置などの改装施し1989年平成元年)秋の完成予定していた。 しかしこの計画実現せず使用されないまま香港会社売却された。さらに、キプロス船会社売却されて「LADY TERRY」と改称。さらに1990年平成2年)にはギリシャ船会社POSEIDON LINES Shipping」に売却され、「LASITHI」と改名するとともにカーフェリー改造され使用された後、1992年平成4年)には「SEA HARMONY II」と改称され地中海航路使用され、さらに2001年平成13年)には「OLYMNPIA I」に改称されている。2002年平成14年)に航路休止した後は、ヨーロッパアフリカ船会社チャーターされ、地中海紅海などで使用されたが、2006年平成18年6月インド解体された。

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石狩丸(2代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 15:47 UTC 版)

十和田丸 (初代)」の記事における「石狩丸(2代)」の解説

函館ドックでの半年間の改造工事終え1967年昭和42年5月6日就航した遊歩甲板甲板室船尾側の半分、すなわち2等(旧3等雑居室を含め左舷側は旅客食堂半ばから、右舷側は1等旧2等)雑居室の半ばから船尾側の甲板室全て撤去され残った前方甲板室は、端艇甲板高級船員居住区に、遊歩甲板改め船楼甲板が普通船居住区改装され船楼甲板機関室囲壁左舷側の1等旧2等)椅子部分船首側から高級船員食堂、普通船食堂に、旅客食堂部前半分が調理室改装された。これに伴い車両甲板下や車両甲板舷側船員居室全て廃止された。このため煙突より前半分は十和田丸面影残していた。従来からの煙突ボイラー発電機からの排気受け持ち主機械からの排気煙突船尾側に新設され左右に近接して並ぶ2本のツノ型の排気筒受け持った。なお、端艇甲板救命艇右舷最前部の1隻のみ救助艇として残された。撤去され救命艇のうちの一艘は長らく保管され1871年明治4年)に木古内町サラキ岬沖合沈没した咸臨丸のミニチュアモニュメントに改造されたうえで、2007年平成19年4月よりサラキ岬にて展示されている[要出典]。 車両甲板では中甲板船首部のみ残して撤去され機関室囲壁幅も1.2mに縮小され船内軌道檜山丸型同様、船尾3線、車両甲板大部分で4線となるよう敷設し直され結果ワム換算43両の積載が可能となった。これにより、車両甲板左舷船室内に設置されていた水密辷戸動力室は、第1と第2が船楼甲板甲板室内の前部機関室囲壁右舷に、第3と第4がツノ型の排気筒直下右舷機関室囲壁外に、第5が船楼甲板左舷係船指揮台前方移設された。 十和田丸時代船内軌道2線のため、ヒーリングタンクにはポンプ室側面容量177.4トンの第4舷側タンク使用されていたが、船内軌道4線化で、これでは容量不足のため、前隣の機械室側面第3舷側タンクと、第4舷側タンク前半分を連結して片舷容量297.1トンと293.5トンのヒーリングタンクとし、前年建造され津軽丸型第7船 十和田丸(2代)同等の、85kW交流誘導電動機駆動可変ピッチプロペラ軸流ポンプ装備したヒーリングシステム1セット換装し、機能向上図られた。 船尾水密扉津軽丸型と同じ、電動油圧式トルクヒンジ駆動の3線幅大型のものに取り替えられポンプ操縦室を含む船尾部分は津軽丸型とほぼ同じ形に改造されたため、船体後半は後に建造され渡島丸型に似たものとなった係船機械十和田丸時代は、それ以前からの連絡船同様、遊歩甲板(石狩丸では船楼甲板船首揚錨機1台と船尾車両甲板両舷のキャプスタン1台ずつだけであった。この改造工事で、船首船楼甲板左舷に1ドラム型、右舷に2ドラム型の係船ウインチ追加設置された。また船尾はこの改造工事大きく形を変え上記船尾キャプスタンはその周囲景色共々消失し新しく船尾船楼甲板上に、左舷に1ドラム型、右舷に2ドラム型の係船ウインチ新設された。いずれも汽動式ながら、津軽丸型同様、船首では一段高くなった船首指揮台操縦スタンドから、船尾では船尾左舷指揮台操縦スタンドから遠隔操縦できるように。揚錨機も同様に遠隔操縦できるよう改造された。これにより着岸時、各係船ウインチ直接それぞれの担当係船索巻き込めるようになり、離着岸時の省力化進められた。 操舵室には主機遠隔操縦装置設置され主機械発停、正逆転回転数制御操舵室から直接できるようになり、固定ピッチプロペラながら、より迅速なプロペラ制御が可能となった。また通常着岸時に船長が立つ操舵室左舷端から右舷船尾を押す補助汽船動向ならびに船尾可動橋との状況監視できるよう、工業用テレビカメラが、船尾から約40mの船楼甲板右舷側とポンプ操縦室頂部試験的に設置されモニターテレビ2台が操舵室左舷後面設置された。機関部では機械室中段への監視設置などの近代化工事行われたが、機関出力変化はなく、青森 - 函館有川間 下4時30上り4時35分のままであった塗装乳白色(7.5Y9/0.5)と藍色(2.5PB2.5/7)に変更され塗り分け線も約1.2m上がり檜山丸型や津軽丸型とほぼ同じ高さとなったファンネルマーク改造当初十和田丸時代変わらず「工」であったが、最後蒸気タービン船引退した1970年昭和45年)、「JNR」に変更された。 再就航後は、航海速力車両積載数が同一檜山丸型2隻と共通運用されたが、渡島丸型第6船の3代目石狩丸就航前に1977年昭和52年3月18日に終航し同年7月21日 共和商会売却されその後大韓民国解体された。

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