ストーカーとレーダーの装備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 06:38 UTC 版)
「石狩丸 (初代)」の記事における「ストーカーとレーダーの装備」の解説
石炭焚き蒸気船のボイラー室での過酷な労働環境改善のため、1950年(昭和25年)9月、渡島丸に青函連絡船初となるストーカー(自動給炭装置)が、当時の東日本重工横浜造船所で装備された。その後1958年(昭和33年)9月には十勝丸、1959年(昭和34年)6月には石狩丸にもストーカーが装備された。 国鉄は運輸省鉄道総局時代の1947年(昭和22年)頃から、連絡船へのレーダー装備を繰り返しGHQに要望してきたが却下され続けた。しかし 1950年(昭和25年)4月、当時進駐軍専用船であったW型の第十二青函丸が濃霧の中、函館山のふもと、穴澗岬に擱坐し、甲板長が死亡するという事故が発生したのを契機に、ようやくGHQから青函連絡船全船へのレーダー装備許可を取り付けることができた。このタイミングで渡島丸が上記の東日本重工横浜造船所へ入渠したため、1950年(昭和25年)9月、商船としては日本初のレーダー装備船となって函館に戻り、同年10月18日、電波監理局の検査を受け正式に運用を開始した。1951年(昭和26年)3月までに青函連絡船全船に順次レーダーが装備されたが、レーダーの機種は、渡島丸を含む11隻にはスペリー MK2が、石狩丸とW型の第十一・第十二青函丸の3隻にはRCA CR-101が装備された。 その7年後、車載客船十和田丸(初代)就航により、洞爺丸沈没から3年近くその代船を務めた徳寿丸が1957年(昭和32年)9月から下関桟橋で係船となったのを機に、そのスペリーレーダーを石狩丸へ移設し、石狩丸のRCAレーダーを函館桟橋ハーバーレーダーとして活用した。
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