石狩丸・檜山丸の客載車両渡船化
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「渡島丸 (2代)」の記事における「石狩丸・檜山丸の客載車両渡船化」の解説
旅客輸送量も1973年(昭和48年)の499万人をピークに以後激減し、1981年(昭和56年)には248万人まで半減していた。しかし利用客の集中する深夜便は、多客時には依然津軽丸型 1隻では運びきれず、従来通り続行便が必要であった。このため客載車両渡船7隻による甲・乙・丙3系統が維持できるよう、引退する2隻の津軽丸型の代替船建造が必要であった。とはいえ旅客数の減少を考慮すると、定員1,286名の津軽丸型で運航される乙系統に25分先行する、補助客便としての甲系統限定なら、旅客定員は特急列車1本分に地元客を加えた500~600名程度あれば十分であり、さらに当時青函トンネルの開通が数年後に迫っており、建造費80億円の新造船建造は非現実的で、結局8~9億円で可能な現有車両渡船への甲板室造設案が採用された。なお乗用車航送は依然需要が見込めたため、津軽丸型よりも多い20台積載とし、旅客定員は650名となった。これにより、渡島丸型で最も新しい石狩丸(3代)と檜山丸(2代)の2隻が選ばれ、前部煙突より後方の船楼甲板上に2層の甲板室を造設し、上記要求を満たす客載車両渡船とした。渡島丸型ではもともと、船楼甲板後部消音器室前後に広大なスペースがあり、国鉄5トン積みコンテナを50個積載する計画があったため、この重量(コンテナ重量も含め約300トン)に配置的にも重量的にも耐えられるよう設計されていた。しかしこの想定重量では通常は定員500名程度が限度とされていたが、船楼甲板上に前部煙突直下から船尾係船作業場直前に至る、総2階建甲板室を、薄鋼板を多用することで、その重量を約240トンに抑え、旅客定員650名と乗用車20台の積載を達成できた。しかしグリーン船室や旅客用食堂のないモノクラスの簡素な造りであった。なお、この甲板室造設による重量増加に伴い、損傷時の安全確保のため、船尾タンクとその前隣の船尾トリミングタンクの間の隔壁を3.5m船首側へ移動して船尾トリミングタンクを縮小した。 石狩丸(3代)は1982年(昭和57年)1月6日、この工事のため函館ドックへ入場し3月17日竣工した。3月26日には函館第3岸壁6時55分発、青森第1岸壁10時45分着の試運航7002便で青森第1岸壁へ初めて着岸した。同岸壁で可動橋接合試験と一般公開を行った後、折り返し同岸壁13時00分発、函館第4岸壁17時00分着の試運航7001便で函館へ戻った。3月29日には10時50分から12時50分まで、こちらも初着岸となる函館第2岸壁で可動橋接合試験を施行した。3月31日、函館第4岸壁19時15分発、青森第1岸壁23時05分着の貨物便の166便から再就航し、この折り返し4月1日0時10分発、函館第2岸壁4時00分着の11便から旅客扱いを開始した。この工事中の1982年(昭和57年)3月4日限りで津軽丸(2代)が終航し、また1980年(昭和55年)10月以来係船中であった日高丸(2代)は1982年(昭和57年)1月6日から3月3日まで函館ドックで法定検査工事を受け、3月4日函館第4岸壁14時10分発、青森第3岸壁18時00分着の52便より復帰した。 檜山丸(2代)は1982年(昭和57年)7月5日、同じく函館ドックへ入場し、9月22日竣工し、9月24日函館第3岸壁6時55分発、青森第1岸壁10時45分着の試運航7002便で青森第1岸壁初着岸し可動橋接合試験を施行、折り返し13時00分発、函館第4岸壁17時00分着の試運航7001便で函館帰着。9月27日には10時46分から12時50分まで、函館第2岸壁へ初着岸し可動橋接合試験を行った。10月1日函館第2岸壁9時45分発、青森第1岸壁13時35分着の乗用車航送もする貨物便154便から再就航したが、一般旅客扱いの初便は10月2日青森第1岸壁0時10分発、函館第2岸壁4時00分着の11便であった。そして松前丸(2代)は11月12日ひっそりと引退して行った。
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