石狩丸建造の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 06:38 UTC 版)
「石狩丸 (初代)」の記事における「石狩丸建造の経緯」の解説
長期化する日中戦争と太平洋戦争勃発による船腹不足は、満州(現在の中国東北部)方面から日本内地への農産物や鉱物資源の海上輸送を、朝鮮半島経由の鉄道輸送へと転移させた。このため1940年(昭和15年)以降、関釜航路では貨物船2代目壱岐丸型2隻、客貨船天山丸型2隻を建造して増加する客貨に対応してきたが、この船腹増加により下関鉄道岸壁が手狭になってしまった。このため、1943年(昭和18年)7月15日から、徳寿丸・昌慶丸の2隻の内地側発着港を博多港中央埠頭東側に移し、博多と釜山を結ぶ博釜航路として開設した。博多は1942年(昭和17年)7月の関門トンネル 開通で既に本州の鉄道とつながっており、博釜航路は関釜航路の補完航路と位置付けられた。しかし、当時の関釜・博釜両航路の貨物輸送には一般型貨物船が使用され、荷役のため岸壁を長時間占有し、両航路の発着する釜山港をはじめ、他社航路の馬山港、麗水港、木浦港などの朝鮮半島南岸の主要港は、1945年(昭和20年)度には飽和状態になると予測された。一方、朝鮮総督府鉄道にはまだ輸送余力があったため、1944年(昭和19年)2月、運輸通信省 企画局は、この事態の打開策として、博釜航路への車両航送導入が最適であるとし、総トン数4,000トン、速力16ノットの車両渡船4隻の建造を海軍艦政本部へ要請した。 これに対し、青函航路へのW型戦時標準船投入にすら消極的であった海軍艦政本部は、これだけの大きさの車両渡船の建造は技術的にも相当困難があるうえ、航路長が青函航路の約2倍の115海里と長く、1日1往復運航となって荷役回数も1日2往復の青函連絡船の半分となり、車両航送導入による荷役時間短縮効果は半減すること。青函航路より敵襲の恐れが高く、高価な車両渡船は喪失時の損害が大きいこと。また両岸の鉄道の軌間差のため貨車の直通ができず、何れかの港での貨物積替え作業を要するうえ、山陽本線は既に飽和状態に近く、貨物が九州に滞留してしまう可能性があること、などを列挙し、そのうえ両港の陸上設備完成のめどが全く立っておらず、車両航送導入の利点は青函よりはるかに少ない、とし1944年(昭和19年)4月の戦時造船計画「改8線表」の1944年(昭和19年)度竣工予定承認については保留とした。 この検討過程で、輸送効率では、大型の方が有利とされたが、建造上の便宜が優先され、1944年(昭和19年)6月、海軍艦政本部提示の、青函航路への転用も可能なW型戦時標準船の派生形を採用する、という妥協案に落ち着き、3,000総トン級 4隻の建造が認められた。しかし、1944年(昭和19年)4月の、この「改8線表」は造船能力や資材供給能力を最大限に見積もって立案されたため、早くも同年6月には資材不足が問題となり、同年7月のサイパン陥落後の戦況の悪化もあって計画遂行はいよいよ困難となり、とりあえずこれらの実情に沿わせて 1944年(昭和19年)度下半期分のみ、1944年(昭和19年)9月に「改9線表」として改訂立案された。このときW型戦時標準船、第十一青函丸・第十二青函丸の2隻の竣工予定も1944年(昭和19年)度から1945年(昭和20年)度へ繰り下げられ、この博釜航路用車両渡船4隻も記載されなかったが、1944年(昭和19年)11月の「改10線表」で、1945年(昭和20年)度分として7隻の建造が記載された。
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