戦時造船計画
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日中戦争勃発以降の船腹不足による造船需要増大に対応するため、造船資材の逼迫緩和、建造能率の向上、船価の引き下げなどを目指し、標準船建造が各方面から要望され、1939年(昭和14年)3月、船舶改善協会が標準船型6種を不定期貨物船の標準船型に選定し、同年4月、逓信省がこれらを標準船型と決定した。さらに同年9月には、翌1940年(昭和15年)4月以降着工となる長さ50m以上の鋼船建造を逓信省の承認制とし、不定期貨物船建造ではこの標準船が優先承認された。さらに1940年(昭和15年)2月には1938年(昭和13年)4月公布の国家総動員法に基づく海運統制令により建造は許可制となり、さらに同年8月からは長さ50m以上の船舶の修理にも逓信大臣の許可が必要となり、10月からは建造許可制の範囲が長さ15m以上にまで拡大され、政府の造船統制は着々と強化されて行った。 太平洋戦争開戦当時、民間造船所では商船だけでなく艦艇建造も増加し、全体の約30%を占めるまでになり、しかも艦艇建造が優先され商船建造は遅れがちであった。この調整を図るため、1941年(昭和16年)12月23日の閣議決定と、それに基づく1942年(昭和17年)2月5日公布の勅令第68号「造船事務に関する所管等の戦時特例に関する件」により、従来は逓信大臣の職権であった①「船舶用主要資材の需給調整」 ②「海軍管理工場における造船及び船舶修繕に関する監督」の2項目を戦時中に限り海軍大臣へ移管し、海軍大臣の一元的管理のもと、艦艇と商船、双方の建造を一体として実施することとした。これらの実務は海軍省令第7号により「長さ50m以上の鋼船の主要資材の需給調整」と「海軍管理工場における造船修繕監督権行使 - これによる艦艇工事との競合調整」を海軍大臣直属の海軍艦政本部が、上記以外の船舶については引き続き逓信省外局の海務院が海軍大臣指揮下で担当した。 このように造船事業の管理権の一部を1941年(昭和16年)末には実質的に所管していた海軍艦政本部であったが、計画造船を全面的に推進するにはこの程度の管理権では不十分であると感じた。このため鋼船造船事業の管理主体を海軍に移し、海軍の力で造船に対する全面的国家統制と推進を行うこととし、1942年(昭和17年)7月29日、先の勅令第68号を改正した勅令第619号「昭和17年勅令第68号造船事務に関する所管等の戦時特例に関する件改正の件」を公布し、長さ50m以上の鋼船の造船、修繕、検査の監督事務の大部分と、長さ50m未満の船舶の主要資材需給も海軍の所管とし、海軍艦政本部がこれらの実務を担当することとした。 逓信省により1941年(昭和16年)12月に立案されていた戦時造船計画「第1次線表」は、このように造船事業管理権の一部を引継いだ海軍艦政本部により「改1線表」「改2線表」「改3線表」と改訂を重ね、1942年(昭和17年)4月「改4線表」として公表された。これが国家的に承認された最初の具体的な戦時造船計画であった。この「線表」とは工場ごとの建造日程の予定を線にしてカレンダーに書き込んだ図表で、海軍ではこれを「線表」と呼び、具体的な建造予定表の通称として広く用いていた。 「改4線表」に沿った商船大量建造のため、新規建造は海軍艦政本部選定の10種類の戦時標準船に限定され、それ以外の特殊目的の船は政府が認めたもののみ、その規格も政府が決める、とされた。しかしこの10種類の戦時標準船は、戦後の使用も考慮し、粗製乱造を避ける旨うたわれ、うち貨物船6種類は船舶改善協会が1939年(昭和14年)3月に不定期貨物船用に選定した標準船(「戦時標準船」の出現後は「平時標準船」と呼ばれた)で、残る鉱石船1種類と油槽船3種類も当時建造中の適当な型を一部簡易化した程度であったが、いずれも工事簡易化のため材料規格の統一や補機部品の標準化が行われていた。しかし、当時各造船所の船台は建造船とその予約で満杯のため、いきなり戦時標準船建造には着手できず、これに先立つ1942年(昭和17年)初頭、戦時標準船への移行促進のため、当時未起工あるいは工事準備の進んでいなかった標準船以外の船舶、ならびに重要度が低いと見なされた船舶の建造は打ち切りが行われたが、1941年(昭和16年)8月6日起工で、当時建造中であった第四青函丸の工事は継続された。 鉄道省から、この時期に出された上記の第四青函丸を含む青函航路向け車両渡船4隻の建造要請に対して、海軍艦政本部は、10種類の戦時標準船に該当しないうえ、速力15.5ノットも出せるのに特定の航路にしか使えず、船の大きさの割に積載能力の小さい車両渡船の建造など論外、小型機帆船を多数建造し、荷役港湾も分散して戦災リスクを分散すべし、と主張し、これを却下した。これに対し、鉄道省は、1,900総トンで速力10ノットの一般型貨物船のD型戦時標準船就航と車両渡船就航との比較検討を行い、片道数時間以内の鉄道連絡船航路における、車両渡船の圧倒的な荷役時間の短さと、それによる、船と岸壁の稼働率の高さを示して、貨車航送の優位性を海軍艦政本部に訴えたが、受け入れられず、しばし膠着状態となった。 1942年(昭和17年)6月のミッドウェイ海戦敗北を転機に、以後、日本商船の戦損は急増し、海運輸送力はさらに逼迫、従来からその多くを内航海運に頼っていた国内炭輸送は危機的状況に陥った。ここに至って、ようやく鉄道省の説得工作が功を奏したのか、政府は1942年(昭和17年)10月6日の閣議で、「戦時陸運の非常体制確立に関する件」 を決定した。この中には“石炭など重要物資の海上輸送を陸上輸送に転移させる。北海道炭輸送については、青函間貨車航送力を最大限度に活用するほか、現に建造計画中の貨車航送船4隻を急速に竣工させる。”さらに“青函間貨車航送は真に必要隻数を建造増加させ、かつこれに要する海陸連絡設備の急速整備を行う”と、5隻目以降の建造と岸壁増設推進の文言も盛り込まれていた。 この時期、太平洋戦争開戦前に起工し、建造を続行していた船舶は「続行船」と呼ばれ、前述1942年(昭和17年)初頭の「続行船」切り捨てを免れ、なお建造中であった「続行船」224隻(71万総トン)中、37隻(8万1000総トン)が同年10月、戦時標準船建造への移行の障害となる、として切り捨てられたが、ようやく石炭輸送の鉄道転移が理解され、第四青函丸建造は継続された。 しかし船舶喪失量は1942年(昭和17年)10月以降、月間10~20万総トンに急増し、対する当時の月間建造量は2~3万総トン程度に留まり、従来の10種類の海軍艦政本部指定戦時標準船(第1次戦時標準船)では簡易化不十分で大量建造に適さず、喪失船舶の補充困難は明白となった。このため、建造中の「続行船」ならびに第1次戦時標準船では、二重底の廃止や隔壁、第二甲板の一部廃止、諸室艤装の簡易化などの設計変更が行われた。 この喪失船舶急増に対応して1942年(昭和17年)12月に公表された戦時造船計画「改5線表」では、当座は上記の第1次戦時標準船の簡易化設計変更で対応せざるを得ないが、船型の簡易化なくして大幅な工事簡易化は達成できないとし、二次曲面を避けた簡易船型を開発するとともに、耐用年数や運航性能、安全性を軽視してまで、使用鋼材節減と工数減少による工期短縮を行い、「船体3年、エンジン1年」と言われた 第2次戦時標準船建造への移行が示された。この「改5線表」で、第四青函丸の建造続行と、第四青函丸をこの第2次戦時標準船に準じ、徹底的に簡易化した車両渡船1隻(第五青函丸)の新規建造がようやく承認され、その竣工予定は1943年(昭和18年)度末とされた。この第五青函丸型は「雑種船」と分類されながらも、戦時標準型車両渡船として、WAGON(貨車)の頭文字をとって、W型戦時標準船の名が与えられ、造船所建造符号として建造順にW1、W2・・と呼称された。 1943年(昭和18年)3月には、第2次戦時標準船建造を盛り込んだ「改6線表」が公表されたが、この計画で前年10月6日の閣議決定以来積み残されていた残り2隻(W2(第六青函丸)、W3(第七青函丸))の建造が承認された。これら2隻の竣工予定は1944年(昭和19年)度とされた。 1944年(昭和19年)3月30日の大本営政府連絡会議で、3隻(W4(第八青函丸)、W5(第九青函丸)、W6(第十青函丸))の建造と、さらに2隻の追加建造を検討中との報告が海軍省からあり、この前年の1943年(昭和18年)12月公表の「改7線表」に、これら3隻も盛り込まれ、1944年(昭和19年)度竣工予定としてW型4隻と記載された。この4隻とは、1944年(昭和19年)度竣工予定船のうち、W2(第六青函丸)が1943年(昭和18年)度内の1944年(昭和19年)3月7日竣工済みのため、W3(第七青函丸)からW6(第十青函丸)までの4隻を指す。なお、1944年(昭和19年)1月から、青森、函館両港の岸壁増設や操車場工事が順次竣工しつつあり、このときから、函館本線と東北本線が飽和するまで車両渡船を建造する、とされた。 1944年(昭和19年)4月の「改8線表」では、この検討中の2隻が4隻(W7(第十一青函丸)、W8(第十二青函丸)、W9(第十三青函丸)、W10(第十四青函丸))に増やされて建造が承認され、うちW8(第十二青函丸)までの6隻が1944年(昭和19年)度竣工予定とされた。 1944年(昭和19年)6月にはさらに1隻(W11(第十五青函丸))の建造が承認され、これをもって函館本線と東北本線が飽和する隻数に達したとされた。このとき同時に博多と釜山を結ぶ博釜航路用車両渡船として、H型戦時標準船4隻の建造も承認されている。 しかし1944年(昭和19年)9月の「改9線表」では、資材確保困難から、1944年(昭和19年)度竣工はW6(第十青函丸)までと同年3月時点の計画に戻し、W7(第十一青函丸)、W8(第十二青函丸)の2隻は1945年(昭和20年)度へ持ち越すと決定され、1944年(昭和19年)11月公表の「改10線表」には、1945年(昭和20年)度竣工予定としてW型5隻(W7(第十一青函丸)、W8(第十二青函丸)、W9(第十三青函丸)、W10(第十四青函丸)、W11(第十五青函丸))、H型7隻と記載された。しかしその後のさらなる戦況の悪化により、W6(第十青函丸)までは戦時中に竣工できたが、W7(第十一青函丸)とW8(第十二青函丸)は建造中の浦賀船渠で終戦を迎え、H型もH1(石狩丸(初代))が三菱重工横浜造船所で建造中終戦を迎えた。それ以降のW型H型は着工には至らなかった。 しかし終戦約1年後の1946年(昭和21年)7月に至り、W型およびH型戦時標準船の基本設計を引き継ぎながら、二重底復活やボイラー6缶への増強などの改良を施した、W9(北見丸)とW10(日高丸(初代))のW型2隻と、H2(十勝丸(初代))とH3(渡島丸(初代))のH型2隻の建造がGHQに承認され、4隻とも1948年(昭和23年)に竣工している。 国鉄部内では、W型戦時標準船にこれら戦後新造のW型2隻も加え「青函型船」または「W型船」と呼び、石狩丸(初代)、十勝丸(初代)、渡島丸(初代)の3隻を「石狩型船」または「H型船」と呼んで分類する場合もあった。またボイラー6缶、煙突4本の車両渡船という括りで戦後建造された北見丸、日高丸(初代)、十勝丸(初代)、渡島丸(初代)の4隻を北見丸型と呼ぶこともあったが、H型はW型より車両積載数がワム換算2両少なく、これを明確にするため、北見丸、日高丸(初代)を北見丸型、十勝丸(初代)、渡島丸(初代)を十勝丸型と分類することもあった。この分類の曖昧さは、これら各船の多くが後述する大きな改修工事を重ね、属するグループが時期により異なったためと推察される。
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