戦時造船計画とは? わかりやすく解説

戦時造船計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:06 UTC 版)

第五青函丸」の記事における「戦時造船計画」の解説

日中戦争勃発以降船腹不足による造船需要増大対応するため、造船資材逼迫緩和建造能率の向上、船価の引き下げなどを目指し標準船建造各方面から要望され1939年昭和14年3月船舶改善協会標準船型6種を不定期貨物船標準船型選定し同年4月逓信省がこれらを標準船型決定した。さらに同年9月には、翌1940年昭和15年4月以降着工となる長さ50m以上の鋼船建造逓信省承認制とし、不定期貨物船建造ではこの標準船優先承認された。さらに1940年昭和15年2月には1938年昭和13年4月公布国家総動員法に基づく海運統制令により建造許可制となり、さらに同年8月からは長さ50m以上の船舶修理にも逓信大臣許可が必要となり、10月からは建造許可制範囲長さ15m以上にまで拡大され政府造船統制着々と強化され行った太平洋戦争開戦当時民間造船所では商船だけでなく艦艇建造増加し全体の約30%を占めるまでになり、しかも艦艇建造優先され商船建造は遅れがちであった。この調整を図るため、1941年昭和16年12月23日閣議決定と、それに基づく1942年昭和17年2月5日公布勅令68号造船事務に関する所管等の戦時特例に関する件」により、従来逓信大臣職権であった①「船舶用主要資材需給調整」 ②「海軍管理工場における造船及び船舶修繕に関する監督」の2項目を戦時中限り海軍大臣移管し、海軍大臣一元的管理のもと、艦艇商船双方建造を一体として実施することとした。これらの実務海軍省第7号により「長さ50m以上の鋼船の主要資材需給調整」と「海軍管理工場における造船修繕監督権行使 - これによる艦艇工事との競合調整」を海軍大臣直属海軍艦政本部が、上記以外の船舶について引き続き逓信省外局海務院海軍大臣指揮下で担当したこのように造船事業管理権一部1941年昭和16年)末には実質的に所管していた海軍艦政本部であったが、計画造船全面的に推進するにはこの程度の管理権では不十分であると感じたこのため鋼船造船事業管理主体海軍移し海軍の力で造船対す全面的国家統制推進を行うこととし1942年昭和17年7月29日先の勅令68号改正した勅令619号「昭和17年勅令68号造船事務に関する所管等の戦時特例に関する改正の件」を公布し長さ50m以上の鋼船造船修繕検査監督事務大部分と、長さ50m未満船舶の主要資材需給海軍所管とし、海軍艦政本部がこれらの実務担当することとした。 逓信省により1941年昭和16年12月立案されていた戦時造船計画「第1次線表」は、このように造船事業管理権一部引継いだ海軍艦政本部により「改1線表」「改2線表」「改3線表」と改訂重ね1942年昭和17年4月「改4線表」として公表された。これが国家的に承認され最初具体的な戦時造船計画であった。この「線表」とは工場ごとの建造日程予定を線にしてカレンダー書き込んだ図表で、海軍ではこれを「線表」と呼び具体的な建造予定表通称として広く用いていた。 「改4線表」に沿った商船大量建造のため、新規建造海軍艦政本部選定10種類戦時標準船限定されそれ以外の特殊目的の船は政府認めたもののみ、その規格政府決める、とされた。しかしこの10種類戦時標準船は、戦後の使用考慮し粗製乱造避ける旨うたわれ、うち貨物船6種類船舶改善協会1939年昭和14年3月不定期貨物船用に選定した標準船(「戦時標準船」の出現後は「平時標準船」と呼ばれた)で、残る鉱石1種類油槽船3種類も当時建造中の適当な型を一部簡易化した程度であったが、いずれも工事簡易化のため材料規格統一補機部品標準化が行われていた。しかし、当時造船所船台建造船とその予約満杯のため、いきなり戦時標準船建造には着手できず、これに先立つ1942年昭和17年初頭戦時標準船への移行促進のため、当時未起工あるいは工事準備進んでいなかった標準船以外の船舶ならびに重要度が低いと見なされた船舶建造打ち切りが行われたが、1941年昭和16年8月6日起工で、当時建造であった第四青函丸工事継続された。 鉄道省から、この時期出され上記第四青函丸を含む青函航路向け車両渡船4隻の建造要請に対して海軍艦政本部は、10種類戦時標準船該当しないうえ、速力15.5ノット出せるのに特定の航路にしか使えず、船の大きさの割に積載能力小さ車両渡船建造など論外小型機帆船多数建造し荷役港湾分散して戦災リスク分散すべし、と主張し、これを却下した。これに対し鉄道省は、1,900総トン速力10ノット一般型貨物船D型戦時標準船就航車両渡船就航との比較検討行い片道数時間以内鉄道連絡船航路における、車両渡船圧倒的な荷役時間短さと、それによる、船と岸壁稼働率の高さを示して貨車航送優位性海軍艦政本部訴えたが、受け入れられず、しばし膠着状態となった1942年昭和17年6月ミッドウェイ海戦敗北転機に、以後日本商船の戦損は急増し海運輸送力はさらに逼迫従来からその多く内航海運頼っていた国内輸送危機的状況陥った。ここに至って、ようやく鉄道省説得工作功を奏したのか、政府1942年昭和17年10月6日閣議で、「戦時陸運の非常体確立に関する件」 を決定したこの中には“石炭など重要物資海上輸送陸上輸送転移させる北海道輸送については、青函貨車航送力を最大限度活用するほか、現に建造計画中の貨車航送船4隻を急速に竣工させる。”さらに“青函貨車航送真に必要隻数を建造増加させ、かつこれに要する海陸連絡設備の急速整備を行う”と、5隻目以降建造岸壁増設推進文言盛り込まれていた。 この時期太平洋戦争開戦前起工し建造続行していた船舶は「続行船」と呼ばれ前述1942年昭和17年初頭の「続行船」切り捨て免れ、なお建造であった続行船」224隻(71総トン)中、37隻(81000総トン)が同年10月戦時標準船建造への移行障害となる、として切り捨てられたが、ようやく石炭輸送鉄道転移理解され第四青函丸建造継続された。 しかし船舶喪失量は1942年昭和17年10月以降月間1020総トン急増し対す当時月間建造量は2~3総トン程度留まり従来10種類海軍艦政本部指定戦時標準船第1次戦時標準船)では簡易化不十分で大量建造適さず、喪失船舶補充困難は明白となったこのため建造中の「続行船」ならびに第1次戦時標準船では、二重底廃止隔壁第二甲板一部廃止、諸室艤装簡易化などの設計変更が行われた。 この喪失船舶急増対応して1942年昭和17年12月公表された戦時造船計画「改5線表」では、当座上記第1次戦時標準船簡易化設計変更で対応せざるを得ないが、船型簡易化なくして大幅な工事簡易化達成できないとし、二次曲面避けた簡易船型開発するとともに耐用年数運航性能安全性軽視してまで、使用鋼材節減工数減少による工期短縮行い、「船体3年エンジン1年と言われ第2次戦時標準船建造への移行示された。この「改5線表」で、第四青函丸建造続行と、第四青函丸をこの第2次戦時標準船準じ徹底的に簡易化した車両渡船1隻(第五青函丸)の新規建造がようやく承認され、その竣工予定1943年昭和18年)度末とされた。この第五青函丸型は「雑種船」と分類されながらも、戦時標準型車両渡船として、WAGON貨車)の頭文字をとって、W型戦時標準船の名が与えられ造船所建造符号として建造順にW1、W2・・と呼称された。 1943年昭和18年3月には、第2次戦時標準船建造盛り込んだ「改6線表」が公表されたが、この計画前年10月6日閣議決定以来積み残されていた残り2隻(W2(第六青函丸)、W3(第七青函丸))の建造承認された。これら2隻の竣工予定1944年昭和19年)度とされた。 1944年昭和19年3月30日大本営政府連絡会議で、3隻(W4第八青函丸)、W5(第九青函丸)、W6第十青函丸))の建造と、さらに2隻の追加建造検討中との報告海軍省からあり、この前年の1943年昭和18年12月公表の「改7線表」に、これら3隻も盛り込まれ1944年昭和19年)度竣工予定としてW型4隻と記載された。この4隻とは、1944年昭和19年)度竣工予定船のうち、W2(第六青函丸)が1943年昭和18年)度内の1944年昭和19年3月7日竣工済みのため、W3(第七青函丸)からW6第十青函丸)までの4隻を指す。なお、1944年昭和19年1月から、青森函館両港の岸壁増設操車場工事順次竣工しつつあり、このときから、函館本線東北本線飽和するまで車両渡船建造する、とされた。 1944年昭和19年4月の「改8線表」では、この検討中の2隻が4隻(W7(第十一青函丸)、W8(第十二青函丸)、W9(第十青函丸)、W10(第十青函丸))に増やされ建造承認され、うちW8(第十二青函丸)までの6隻が1944年昭和19年)度竣工予定とされた。 1944年昭和19年6月にはさらに1隻(W11(第十青函丸))の建造承認されこれをもって函館本線東北本線飽和する隻数に達したとされた。このとき同時に博多釜山を結ぶ博釜航路車両渡船として、H型戦時標準船4隻の建造承認されている。 しかし1944年昭和19年9月の「改9線表」では、資材確保困難から、1944年昭和19年)度竣工W6第十青函丸)までと同年3月時点計画戻し、W7(第十一青函丸)、W8(第十二青函丸)の2隻は1945年昭和20年)度へ持ち越す決定され1944年昭和19年11月公表の「改10線表」には、1945年昭和20年)度竣工予定としてW型5隻(W7(第十一青函丸)、W8(第十二青函丸)、W9(第十青函丸)、W10(第十青函丸)、W11(第十青函丸))、H型7隻と記載された。しかしその後さらなる戦況の悪化により、W6第十青函丸)までは戦時中竣工できたが、W7(第十一青函丸)とW8(第十二青函丸)は建造中の浦賀船渠終戦迎えH型もH1(石狩丸(初代))が三菱重工横浜造船所建造終戦迎えたそれ以降W型H型着工には至らなかった。 しかし終戦1年後1946年昭和21年7月至りW型およびH型戦時標準船基本設計引き継ぎながら、二重底復活ボイラー6缶への増強などの改良施した、W9(北見丸)とW10(日高丸初代))のW型2隻と、H2(十勝丸(初代))とH3(渡島丸(初代))のH型2隻の建造GHQ承認され、4隻とも1948年昭和23年)に竣工している。 国鉄部内では、W型戦時標準船にこれら戦後新造W型2隻も加え青函型船」または「W型船」と呼び石狩丸(初代)十勝丸(初代)渡島丸(初代)の3隻を「石狩型船」または「H型船」と呼んで分類する場合もあった。またボイラー6缶、煙突4本の車両渡船という括り戦後建造され北見丸日高丸初代)十勝丸(初代)渡島丸(初代)の4隻を北見丸型と呼ぶこともあったが、H型W型より車両積載数がワム換算2両少なく、これを明確にするため、北見丸日高丸初代)北見丸型、十勝丸(初代)渡島丸(初代)十勝丸型と分類することもあった。この分類の曖昧さは、これら各船の多く後述する大きな改修工事重ね属すグループ時期により異なったためと推察される。

※この「戦時造船計画」の解説は、「第五青函丸」の解説の一部です。
「戦時造船計画」を含む「第五青函丸」の記事については、「第五青函丸」の概要を参照ください。

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