太平洋戦争開戦前
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第一次世界大戦を観察して日本軍では改革の必要性を強く自覚することとなるが、大戦後の軍縮、シベリア出兵、関東大震災などで本格的な改革が進んでいなかった。大戦の戦訓として日本ではドイツ軍がフランス軍に対しては慎重であったがロシア軍に対しては包囲殲滅戦を積極的に行ったことに注目し、敵に応じて戦法を変えるべきであり、また速戦即決のために敵軍を一気に殲滅することが必要だという用兵思想が生まれた。 さらに平時から敵の戦法を研究してこれに効果的に対抗するためにお機略が要する考えも現れた。その結果、師団以下の部隊を対象に戦法及び部隊訓練の基本を示した昭和4年の『戦闘綱要』の制定と、方面軍・軍等に対する戦術・戦略思想をまとめた昭和3年の『統帥綱領』の改定といった用兵思想の整備が実施された。 この改訂統帥綱領は有形的要素ではなく、無形的要素を重視して記述されており、退却については特異な作戦の一環として若干触れるに留めていた。 加えて、明治以来根本的な改良を行ってこなかった歩兵操典を小改訂し、昭和3年の歩兵操典では「必勝ノ信念」について加筆されることとなった。 この必勝の信念は後に物量的な劣勢を思考の上で無視するための日本陸軍における標語のようなものになり、参謀本部においてもしばしばこの言葉が使用された。また昭和11年には突撃の要領が制圧射撃の下での連携された突撃から自主的、積極的な「果敢ナル突撃」と改められた。 これら戦闘綱要、統帥綱領、歩兵操典などはいずれも根本においてはロシア(ソ連)軍を念頭においており、日本陸軍独特の各種条件にもとづいて戦略戦術思想を統一し、訓練の基準を示すものとして交付されたが、加えて昭和3~4年において赤軍の歩兵操典の入手したことをきっかけとして赤軍研究が進んだ結果、昭和7年に対ソ戦闘教令が発布された。これも無形的要素が重視されていた。 そして、満州事変、支那事変の経験や兵器開発の進展を踏まえて各種典範令の改善が必要となったことから、昭和13年には諸兵科連合の戦闘原則を示した戦闘綱要と陣中要務の原則を示した陣中要務令を統合した『作戦要務令』が制定された。これは精神力や独断等の向上、困難な地形・天候・時刻であっても断固として克服利用して敵の意表を突くといった無形的要素がちりばめられ、攻撃精神が富めば勝敗は兵力の多寡によらないとする一方、補給は必ずしも望まず欠乏に耐えて戦局を打開するという記述がされている。 その後、昭和14年には砲兵操典、昭和15年には戦車操典、工兵操典、航空作戦綱要など次々と制定していったが、その根底は作戦要務令とおおよそ同じであった。 こうして大東亜戦争(日中戦争、太平洋戦争、ソ連対日参戦)に突入した時点の日本陸軍の用兵思想は非常に独特なものへと発展していった。それは第一に政戦略を度外視して作戦上の要求を重視した作戦至上主義、第二に日本の国力限界を前提とした速戦即決を目指した先制攻撃と殲滅戦の軍事思想、第三に日本が常に兵力上で劣勢であることを宿命とする思考法、第四に第三の思考法を踏まえた実際的ではなく願望的な用兵思想、第五に打算的な思考を嫌う武士道の倫理に基づいた物資欠乏は軍人の宿命とする思考である。 しかし、これら日本陸軍の用兵思想が前提としていたのが満州をはじめとした東アジア大陸での戦闘であり、陸軍が仮想敵国と考えていたロシア帝国=ソビエト連邦との戦いに備えたものであったのに対し、日本海軍は日露戦争後アメリカを仮想敵国しており、太平洋での戦闘を考えていたことから、陸海軍の用兵思想は自ずと異なっていくことになる。 なお、これらの用兵思想の普及は陸軍大学校を中心に行われていたが、その教材として戦争要論、戦争史概観、統帥参考といった兵学書が作られ、昭和兵学の発展に貢献している。
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