太平洋戦争開戦後
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「香取 (練習巡洋艦)」の記事における「太平洋戦争開戦後」の解説
詳細は「マーシャル・ギルバート諸島機動空襲」を参照 1942年(昭和17年)1月12日、伊号第六潜水艦はレキシントン級航空母艦の撃沈を報告(実際は空母サラトガ大破)。日本海軍は「米軍機動部隊は太平洋方面で当分活動不能」と判断した。2月1日、ウィリアム・ハルゼー中将とフランク・J・フレッチャー少将率いる米空母2隻(エンタープライズ、ヨークタウン)はマーシャル諸島とギルバート諸島に空襲を敢行した。マーシャル諸島を攻撃したのはハルゼー提督の空母「エンタープライズ」で、SBDドーントレス急降下爆撃機37機とTBDデヴァステイター雷撃機9機が発進、クェゼリンにはデヴァステイター9機が向かった。さらに予備のTBD9機とSBD数機が加わった。空襲当日のクェゼリンには香取(先遣部隊旗艦)と潜水艦複数隻(先遣部隊〈伊9、伊15、伊17、伊19、伊23、伊25、伊26〉、南洋部隊〈呂61、呂62〉)、他に支援艦艇や小型艦艇が在泊していた。香取に対する雷撃隊の魚雷攻撃はすべて外れた。だが至近弾数発と機銃掃射で死傷者を出し、清水中将も重傷を負った。香取の損害は戦死1名、負傷25名であった。損傷した香取は2月9日にクェゼリンを出発、16日に横須賀へ戻って修理を受けた。約一ヶ月間、修理に従事する。 3月16日、清水中将の後任として小松輝久中将が着任し、引続き香取を旗艦とした。本艦は呉に移動、教育訓練をおこなった。4月16日、香取と水上機母艦(甲標的母艦)千代田は麾下潜水艦6隻(第3潜水隊、第14潜水隊)と共に呉を出撃、トラック泊地にむかった。4月18日、アメリカ海軍は米空母2隻(エンタープライズ、ホーネット)を投入し、ホーネットから発進したB-25爆撃機による帝都空襲を敢行した(ドーリットル空襲)。連合艦隊は「対米国艦隊作戦第三法」を発令、先遣部隊(第六艦隊)も米軍機動部隊邀撃に投入される。先遣部隊指揮官(第六艦隊長官、旗艦香取)は第三潜水戦隊と東方先遣隊(第3潜水隊、第14潜水隊)に掃航索敵を命じ、千代田には警戒部隊(第一艦隊司令長官指揮下の戦艦部隊)への合流を命じた。香取はトラック泊地に向かった。4月23日、香取はトラック泊地に到着。南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官、旗艦鹿島)と打ち合わせをおこない、5月3日にクェゼリンへ進出した。6月上旬のミッドウェー海戦では、指揮下の伊号第一六八潜水艦が空母ヨークタウンと駆逐艦ハムマンを撃沈している。ミッドウェー作戦における日本海軍の潜水艦作戦は問題が多く、成功したとはいえなかった。 7月1日、香取艦長は大和田大佐から中岡信吾大佐(当時、第十二潜水隊司令)に交代(大和田は9月1日より戦艦山城艦長)。8月1日、香取は第9駆逐隊(朝雲、夏雲)に護衛されてクェゼリンを出港、8日横須賀着。この時、ソロモン諸島では米軍のツラギ島およびガダルカナル島への上陸敢行によりガダルカナル島の戦いが生起した。第六艦隊(先遣部隊)は連合艦隊司令部とカ号作戦(ソロモン諸島要地奪回作戦)及び同作戦における潜水艦の投入について打ち合わせを行う。8月18日夕刻、香取と平安丸は駆逐艦2隻(朝潮、朧)に護衛されて横須賀を出発(駆逐艦護衛は19日まで)。航海中の8月21日、連合艦隊は第三潜水戦隊(当時、外南洋部隊指揮下で行動中)と第七潜水戦隊(外南洋部隊所属)を先遣部隊(第六艦隊)に編入、潜水艦部隊の統一指揮を企図した。24日、香取はトラック泊地に到着。以後、同地に停泊して潜水艦部隊の指揮をおこなった。 11月28日、香取艦長は中岡大佐から宮崎武治大佐に交代する(中岡は12月1日より重巡洋艦愛宕艦長。翌年11月5日、ラバウル空襲時に戦死)。トラックには1943年(昭和18年)3月中旬まで留まった。 1943年(昭和18年)3月27日、駆逐艦江風(第24駆逐隊)護衛下、3隻(巡洋艦〈香取〉、輸送船〈日枝丸〉、測量艦〈筑紫〉)は横須賀に到着した。一度横須賀でドック入りした後、5月5日に出渠。その後、トラック泊地に戻った。当事は空襲の心配もなく、トラック泊地は平穏だったという。6月21日、小松中将は佐世保鎮守府司令長官へ転出し、第六艦隊司令長官は高木武雄中将に交代。高木長官は引き続き香取を旗艦とした。7月20日、香取艦長は第二潜水隊司令水口兵衛大佐に交代(宮崎は第二潜水隊司令へ転出)。10月15日、香取艦長は水口大佐から小田為清大佐(9月17日まで潜水母艦長鯨艦長)に交代する。
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太平洋戦争開戦後
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昭和16年(1941年) 10月1日 第二十一海軍航空廠を併設。 12月8日 太平洋戦争開戦に伴い、九州西岸~対馬海峡の対戦哨戒を開始。 昭和17年(1942年) 3月26日 東シナ海に敵潜水艦侵入、4月3日まで対潜掃討に従事、戦果なし。 昭和19年(1944年) 3月15日 諫早分遣隊(初歩練)・元山分遣隊(戦闘機慣熟)設置。 5月15日 済州島分遣隊(初歩練)設置。 8月1日 佐世保空大村分遣隊、第三五二海軍航空隊に改編、大村駐留を継続。 8月10日 元山分遣隊、二代元山海軍航空隊に改編。 8月20日 B-29初空襲。戦闘機隊は大村上空で哨戒。 10月25日 大村初空襲、第二十一海軍航空廠全焼。三五二空の防空邀撃に協力。 以後、大村市は18回爆撃、そのたびに三五二空・大村空で邀撃。 11月11日 B-29偵察機、九州を偵察。5機で追尾するが取り逃がす。 昭和20年(1945年) 2月11日 済州島分遣隊、釜山海軍航空隊に改編。 3月1日 諫早分遣隊、諫早海軍航空隊に改編。 3月頃 「天号作戦」に備え特攻隊を編成、「神剣隊」を結成。 3月27日 八幡空襲。邀撃に協力。 4月1日 沖縄に連合軍上陸。実施部隊は三五二空とともに笠之原飛行場に進出。 4月6日 「菊水一号作戦」発動。第一神剣隊16機出撃。 4月14日 第二神剣隊9機出撃。 4月16日 第三神剣隊3機・第四神剣隊1機出撃。 4月21日 笠之原飛行場に敵機襲来、邀撃。 4月22日 特攻隊を喜界島上空まで護衛。 4月27日 笠之原飛行場に敵機襲来、邀撃。 5月4日 第五神剣隊15機出撃。 5月5日 解隊。 大村飛行場は相次ぐ空襲で壊滅的な被害を受けていたため、訓練は不可能な状態にあった。一方、本土決戦の際には基地として使用できるようにするため、海軍乙航空隊の西海海軍航空隊の隷下に置くこととなった。このため、伝統ある大村空も解散となった。笠之原に残留した神剣隊は解散を許されず、第七二一海軍航空隊に委譲され、5月14日の第六神剣隊の出撃をもって壊滅した。
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太平洋戦争開戦後
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比叡を指揮してハワイ作戦に参加し、1942年(昭和17年)に入って行われたラバウル攻略戦やポートモレスビー攻略作戦などに参加した。セイロン沖海戦の後の5月~7月の間はアリューシャン攻略戦に参加し戦艦金剛、榛名によるガタルカナル島への艦砲射撃の成功に気を良くした軍令部は、比叡・霧島による再攻撃を立案した。それを聞いた比叡の西田艦長は「同じ作戦が成功するはずはない」と猛反対したが、11月3日夕刻のトラック島仮泊する戦艦大和での緊急作戦会議において、山本五十六長官の意向を知り最終的には同意する。これが第三次ソロモン海戦とよばれる米重巡艦隊との会戦となった。会議後の壮行会から退去する際に長官室を訪れた西田艦長に、山本長官は「もうしばらくだよ・・・いや、前から考えていたのだ・・・・・・こんどの作戦が終わったら、きみに、ここへ(大和艦長として)来てもらう。いいだろう」と語りかけたという。 実際に海戦直後の12月には大和艦長の異動があり、西田の同期生である松田千秋大佐が着任している。 1942年(昭和17年)末における44期生一選抜組(1937年(昭和12年)12月に大佐進級)は、西田正雄大佐(比叡艦長、兵学校卒業時は3番、電報符342)、島本久五郎大佐(第6艦隊参謀長、6番、同343)、一宮義之大佐(第5艦隊参謀長、1番、同344)、松田千秋大佐(日向艦長、14番、同354)、大和田昇大佐(山城艦長、8番、同355)、山澄貞次郎大佐(陸奥艦長、15番、同356)、小島秀雄大佐(軍令部出仕兼大本営参謀、7番、同358)であり、一選抜組は西田を除き全員が、1943年(昭和18年)5月に少将に進級している。ちなみに電報符345~353は42期生や43期生、同357はミッドウェー海戦で戦死した同期生柳本柳作少将(蒼龍艦長、21番)である。海戦の結果次第では「大和艦長西田正雄大佐」が誕生していた可能性は高かったのである。 (※電報符とは毎年、上は元帥海軍大将から下は少尉候補生まで、全海軍士官に対して序列順に割り振られた背番号のようなものであり、先任後任の序を重視する軍隊では重要な人秘であった。電報符は毎年更新される「現役海軍士官名簿」で定められていた。太平洋戦争期の電報符1は、元帥海軍大将伏見宮博恭王である。) 11月12日深夜、艦隊の意思疎通不足により比叡が先頭にして戦場に突入する形となり、日付が変わる頃守備していた米重巡艦隊の集中砲火を浴びて上甲板に火災が発生、このとき西田艦長自身も脚に負傷し、また操舵室に浸水して戦場から離脱できなくなった。米重巡艦隊には壊滅的な打撃を与えたものの、その後夜明けとともにガタルカナル島からのアメリカ軍航空機に再三にわたって攻撃された。機関部は全力発揮可能だったが断続的な航空機の攻撃により舵の復旧作業は遅々として進まず、ついに11月13日夕方、応急修理の見込みなしとして司令部より比叡の処分命令が出された。しかし西田艦長は比叡の損害は未だ軽微であると主張し、艦を救う努力をやめなかった。最終的に3度同じ命令を出され、また「機関部全滅」という報告を受け(総員退避後に誤報と判明)総員退艦を決意する。 その際、西田艦長は総員退艦させた後に艦と運命をともにすべく残ろうとしたが、「あまりにも優秀な未来の戦艦大和艦長、さらには連合艦隊司令長官たりえる人物を死なせるのは忍びない」と比叡掌航海長の坂本松三郎大尉(特務士官、横須賀鎮守府在籍者)が説得を試みた。総員退艦時の訓示を名目に艦橋から西田艦長を降ろそうとしたが頑なに拒否したため、坂本大尉とその部下3人に羽交い絞めにされて甲板に担ぎ下ろされた。後部砲塔の上から後甲板に並ぶ乗員に訓辞を述べたあと、再度坂本らと1時間半にも渡る押し問答となった。 その様子を比叡より将旗を移した駆逐艦の雪風から見ていた第11戦隊司令官・阿部弘毅中将も、「比叡の実情報告のため、雪風に移乗せよ」という内容の命令を出し、西田艦長を退艦させるよう仕向けた。命令は退避する乗員を運んでいたカッターで比叡艦上に残る西田に届けられた。西田艦長は阿部中将の直筆と確認するも、その命令を無視して比叡に残ろうとした。比叡はキングストン弁が開かれ、上甲板が海水に洗われる状態となった。もはやこれ以上は待てぬと考えた坂本は上級将校らとともに再度西田の手足を担ぎ上げ、そのままカッターに無理やり運び込んだ。西田艦長は大声を上げて暴れたが雪風に着いてからは冷静に振舞った。 阿部中将に比叡の状況を報告したのちに西田艦長はなおも比叡に戻るつもりでいたがここで「機関全滅」というのが誤報と知る。西田艦長は愕然としたがその時雪風は動き出し、また比叡に向けて雪風から魚雷が発射された。魚雷は比叡の中央部に命中したが、それでも比叡が沈まず、西田艦長は比叡の沈没を見届けないままその場を去ることになった。 その後、愛宕らを主力とする日本巡洋艦隊がガタルカナル島を攻撃した。雪風も現場海域に戻ってみたが、すでに比叡の姿は見られず重油の帯が残るのみであった。
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太平洋戦争開戦後
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1942年4月10日、「金城山丸」と特設巡洋艦「能代丸」、特設砲艦「長運丸」で東南太平洋海域の海上交通保護を任務とする第二海上護衛隊(第四艦隊所属)が編成された。しかし、3隻ともまず入渠整備や新任務のための艤装変更等が必要であった。 「金城山丸」は呉で整備、艤装を行い4月25日に出港してトラックへ向け単独航行中、5月4日17時30分にトラック北西でアメリカ潜水艦「グリーンリング」の攻撃により被雷沈没した。第五十八駆潜隊の「厚榮丸」により23名が救助された。
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太平洋戦争開戦後
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「第四艦隊 (日本海軍)」の記事における「太平洋戦争開戦後」の解説
1941年(昭和16年)12月1日、日本海軍は第十八戦隊司令部(第十八戦隊司令官は丸茂邦則少将)を新設し、第四艦隊司令部(旗艦:鹿島)は独立した。カロリン諸島・パラオ諸島・マーシャル諸島の防衛のために陸戦用の防備隊を置いた。軍隊区分上の扱いは、南洋防衛を担当する南洋部隊と定められている(指揮官は第四艦隊司令長官)。太平洋戦争開戦後は軍隊区分上で内南洋の外まで担当することになったが、広大な海域を担当するには兵力不足だった。井上長官以下第四艦隊司令部は兵力増強を要請したが、海軍の全般作戦上実現しなかった。水上艦基地としてトラック環礁、潜水艦基地としてクェゼリン環礁を活用するとともに、南部フィリピン・グァム島・ウェーク島・ギルバート諸島・東ニューギニア・ビスマーク諸島・ソロモン諸島への攻略拠点部隊として機能した。 ミッドウェー海戦後の1942年(昭和17年)7月14日、日本海軍は第八艦隊(司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将、参謀神重徳大佐ほか)を新編する。南東方面戦域の拡大にともない、一コ艦隊で内南洋と外南洋を担当するのは負担が重すぎた事、南東方面の日本陸軍第17軍との兼ね合いなどが、第八艦隊新編の主な理由である。これに伴い、外南洋の担当は第八艦隊に委譲(三川中将は外南洋部隊指揮官となる)。第四艦隊(南洋部隊)は内南洋部隊となった。第四艦隊は引き続き内南洋方面の警備および海上交通保護に従事した。なお、南洋部隊(第四艦隊)が南東方面(ソロモン諸島、ガダルカナル島など)で実施中の航空基地設営作戦なども、外南洋部隊(第八艦隊)の担当となった。 同年10月26日、第四艦隊司令長官は井上中将から鮫島具重中将に交代した。本土に戻った井上中将は、天皇に軍状を奏上した。 1943年(昭和18年)4月1日、第四艦隊司令長官は鮫島中将から小林仁中将に交代した(鮫島中将は第八艦隊司令長官へ転任)。 同年末から内南洋でもアメリカ軍の反抗が始まった(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)。11月にはギルバート諸島タラワ島が陥落した(タラワの戦い)。翌1944年(昭和19年)1月にはマーシャル諸島クェゼリン島も陥落する(クェゼリンの戦い)。さらに同年2月17日にはトラック島空襲のため中心拠点が機能不全となり、小林仁司令長官が更迭された。連合艦隊主力はパラオに退却するが、ここも3月末のパラオ大空襲で機能不全となり、日本軍は内南洋の制海権を完全に失った。第四艦隊の艦隊根拠地守備隊としての意義も失われた。 1944年(昭和19年)3月4日、日本海軍は中部太平洋方面艦隊(司令長官南雲忠一中将)を新編し、サイパン島に司令部を置いた。この時に第四艦隊はその隷下に入った。中部太平洋方面艦隊の隷下部隊のうち第十四航空艦隊は稼動機がなく、実質的に第四艦隊が戦力のすべてであった。サイパンの戦いで中部太平洋方面艦隊司令部は全滅し、遠隔地に取り残された第四艦隊は本土との補給がほぼ完全に止まり、終戦まで各部隊が自活を余儀なくされた。トラック環礁などを航空偵察拠点として細々と使用するだけの状態であった。
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