太平洋戦線への転属
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「ボナー・フェラーズ」の記事における「太平洋戦線への転属」の解説
マッカーサー大将の総司令部では1942年9月から、日系二世語学兵を主力とし、連合国軍3大情報機関の中で最大となる連合国翻訳通訳課(Allied Translator and Interpreter Section: 略称ATIS)が活動していた(他の2つはホノルルの太平洋戦域統合情報センター(Joint Intelligence Center, Pacific Ocean Areas)とニューデリーの東南アジア翻訳捕虜尋問センター(Southeast Asia Translator and Interrogation Center))。ATIS調整官のシドニー・マシュバー(Sidney Mashbir)大佐は日本専門のG2将校で、駐日武官勤務だけでなく、東京でのビジネスマン経験もあり、海軍のエリス・ザカライアスと並ぶ陸軍きっての日本専門家だった。二世語学兵には日本で学校教育を受けた「帰米」もいた。帰米は学校で軍事教練を受けているので、日本語の軍事用語に通じており、筆で書かれた草書体の文書も読めた。ATISでは捕獲した日本軍文書の翻訳・分析と捕虜尋問、そこから得た情報の配布を行った。捕獲文書には日本軍兵士の日記が大量にあり、ATISはその翻訳を通して日本軍部隊の状態や配置、作戦、兵站、士気、心理状態などを詳細に知ることができた。戦場での捕虜尋問で間近に迫った日本軍の空爆を避けることもあった。二世語学兵には残敵掃討の投降勧告で命を張る者もいた。 フィリピンからオーストラリアへ脱出したマッカーサー最高司令官の南西太平洋戦域では、オーストラリア軍最高司令官(Commander in Chief, Australian Military Forces)トーマス・ブレイミー(Thomas Blamey)大将が連合国陸上部隊(Allied Land Forces)司令官となり、オーストラリア委任統治領東部ニューギニア戦までの同戦域の連合国軍主力はオーストラリア陸軍だった。マッカーサーは、チェスター・ニミッツ大将が最高司令官の太平洋戦域(Pacific Ocean Areas)で行われた、日本軍の拠点を正面から攻撃して全滅させる自軍にも犠牲の多い戦略ではなく、日本軍の手薄なところに飛行場を確保して退路を断ち、日本軍を戦闘で全滅させず餓死させる戦略を採り、南西太平洋戦域の連合国軍戦死傷者は多く見積もっても日本軍の十分の一にならないと推測されている。二世語学兵1人は歩兵1個中隊と同じ価値を持つとも言われ、マッカーサー総司令部のG2部長としてATISを設立したチャールズ・ウィロビーは、二世語学兵が戦争を2年短縮したと評した。戦後にマッカーサーは「実際の戦闘前にこれほど敵のことを知っていた戦争はこれまでになかった」と語っているほどである。1944年3月末の「海軍乙事件」で、連合艦隊参謀長福留繁中将が保持していた新Z号作戦計画書などの最高機密文書を翻訳・分析して、ニミッツの担当戦域でのマリアナ諸島攻略戦に貢献したのもATISである。マッカーサーのOSS嫌いは有名だが、個人的感情によるものではない。マッカーサーは、統合参謀本部で太平洋戦線を主に担当する合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング大将とは、対日戦略構想が全く違って対立しており(キングはフィリピン素通りを主張、マッカーサーはフィリピン奪還に固執。1944年7月にルーズベルト大統領の裁定でマッカーサー案採用)、統合参謀本部指揮下のOSSが南西太平洋戦域で活動することを認めなかった。 一方、フェラーズは旅行で3度、訪日しただけで、日本での勤務経験はなく、英語でラフカディオ・ハーンなどの著作を読んでいて日本語の読み書きはできない。G2将校の任務を外されたフェラーズは、マッカーサー総司令部で心理戦担当となり、ATISのマシュバー調整官に部下の二世語学兵を求めた。日本本土侵攻のオリンピック作戦準備のため、陸軍省G2は全ての二世語学兵をATIS指揮下に入れた。したがって二世語学兵たちを統括したATIS調整官マシュバー大佐がアメリカ陸軍G2将校で日本人の心理を最もよく知る1人だったことは確実であり、日本放送協会(NHK)が1997年6月15日に放映したNHKスペシャル「昭和天皇『二つの独白録』」制作のため、フェラーズの1人娘にマッカーサー記念館(MacArthur Memorial)へ複写を提供させたフェラーズ文書を元にした、東野真(解説は粟屋憲太郎と吉田裕)、ジョン・ダワー、ハーバート・ビックス、岡本嗣郎、井口治夫、加藤哲郎らや、映画『終戦のエンペラー』の描くフェラーズ像は、ATISの存在と活動を知らないか無視して、フェラーズのマッカーサーに対する影響力を過剰すぎるほど過大評価したものであり(エドウィン・ライシャワーの文書も、G2将校時代の文書は公開されていない)、第二次世界大戦のヨーロッパでの戦いに対する関心が低く、フェラーズが北アフリカ戦線で犯したG2将校としての致命的失態が知られていない日本国民を対象とした大がかりなディスインフォメーションと、駄場裕司は推測している。『終戦のエンペラー』が取り上げたフェラーズの活動は、実際はATISのジョン・アンダートン少佐に助けられながらの裏工作だった。 『終戦のエンペラー』でフェラーズはクエーカーの平和主義者として描かれているが、実際のフェラーズは、アメリカの極右団体ジョン・バーチ・ソサエティに加入した反共主義者だった。マーク・ゲインはマッカーサーにとってのフェラーズの役割は、クエーカー同士で親しい共和党保守派(主流派)のハーバート・フーヴァー元大統領らとのパイプ役だとしている。マッカーサーは軍医出身で参謀総長となった陸軍非主流派のレオナード・ウッド(Leonard Wood)少将(父アーサー・マッカーサー・ジュニアの元部下)のお気に入りで、ウッドは1912年の大統領選挙で共和党を割って革新党を設立したセオドア・ルーズベルト元大統領の盟友であるため、共和党革新派(非主流派)の系譜に連なる。陸軍主流派の最高実力者、第一次世界大戦のアメリカ遠征軍最高司令官で、参謀総長となったジョン・パーシング元帥は、外見的な規律ではアメリカ軍最低レベルの州兵師団、第42歩兵師団(42nd Infantry Division (United States) 通称「レインボー師団」)の部隊を最前線で指揮して、アメリカ軍将官としては最高の戦功を挙げたマッカーサーを第一次世界大戦中から嫌っており、女性問題(パーシングと、その副官の元愛人と結婚した)で、士官学校校長から、マニラ軍管区(Military District of Manila)司令官という実体のないポスト(すでにフィリピン軍管区(Philippine Department)司令官が存在)を創設して追放した(当時のフィリピン総督はウッド)。マッカーサーはパーシング元帥が定年で退役して参謀総長を降りるまでアメリカ本国に戻れなかった。パーシングのお気に入りは自分が参謀、副官として使ったマーシャルだった。逆にマッカーサーは自分の参謀総長時代にマーシャルらパーシングのお気に入りを冷遇した(マーシャルを、その希望に反してモートリー要塞(Fort Moultrie)司令から、イリノイ州州兵師団の第33歩兵師団(33rd Infantry Division (United States))シニア・インストラクターへ異動)。 第二次世界大戦中から陸軍主流派の実力者のマーシャルとアイゼンハワーに嫌われていたフェラーズは、戦後、畑違いの陸軍航空軍(1947年に空軍として独立)の利害を代弁する戦略核爆撃機増強論者となった。第二次世界大戦後の軍事費削減で大佐に降格となり、1940年9月制定の選抜訓練徴兵法(Selective Training and Service Act of 1940)で編成された合衆国陸軍(Army of the United States)が解散されると退役大佐。1948年6月に退役准将に昇進した。1948年の大統領選挙では、共和党保守派のロバート・タフト上院議員の陣営で活動した。
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