太平洋戦線への転属とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 太平洋戦線への転属の意味・解説 

太平洋戦線への転属

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:28 UTC 版)

ボナー・フェラーズ」の記事における「太平洋戦線への転属」の解説

マッカーサー大将総司令部では1942年9月から、日系二世語学兵を主力とし、連合国軍3大情報機関の中で最大となる連合国翻訳通訳課(Allied Translator and Interpreter Section: 略称ATIS)が活動していた(他の2つホノルル太平洋戦域統合情報センター(Joint Intelligence Center, Pacific Ocean Areas)とニューデリー東南アジア翻訳捕虜尋問センター(Southeast Asia Translator and Interrogation Center))。ATIS調整官のシドニー・マシュバー(Sidney Mashbir)大佐日本専門G2将校で、駐日武官勤務だけでなく、東京でのビジネスマン経験もあり、海軍エリス・ザカライアスと並ぶ陸軍きっての日本専門家だった。二世語学兵には日本学校教育受けた「帰米」もいた。帰米は学校軍事教練受けているので、日本語軍事用語通じており、筆で書かれ草書体文書読めたATISでは捕獲した日本軍文書の翻訳分析捕虜尋問、そこから得た情報配布行った捕獲文書には日本軍兵士日記大量にあり、ATISはその翻訳通して日本軍部隊の状態や配置作戦兵站士気心理状態などを詳細に知ることができた。戦場での捕虜尋問間近に迫った日本軍空爆避けることもあった。二世語学兵には残敵掃討投降勧告で命を張る者もいた。 フィリピンからオーストラリアへ脱出したマッカーサー最高司令官南西太平洋戦域では、オーストラリア軍最高司令官(Commander in Chief, Australian Military Forces)トーマス・ブレイミー(Thomas Blamey)大将連合国陸上部隊(Allied Land Forces)司令官となり、オーストラリア委任統治領東部ニューギニア戦までの同戦域連合国軍主力オーストラリア陸軍だった。マッカーサーは、チェスター・ニミッツ大将最高司令官太平洋戦域(Pacific Ocean Areas)で行われた日本軍拠点正面から攻撃して全滅させる自軍にも犠牲の多い戦略ではなく日本軍の手薄なところに飛行場確保して退路断ち日本軍戦闘全滅させず餓死させる戦略を採り、南西太平洋戦域連合国軍戦死傷者多く見積もって日本軍十分の一ならない推測されている。二世語学1人歩兵1個中隊と同じ価値を持つとも言われマッカーサー総司令部G2部長としてATIS設立したチャールズ・ウィロビーは、二世語学兵が戦争2年短縮した評した戦後マッカーサーは「実際戦闘前これほど敵のことを知っていた戦争これまでになかった」と語っているほどである。1944年3月末の「海軍乙事件」で、連合艦隊参謀長福留繁中将保持していた新Z号作戦計画書などの最高機文書翻訳分析してニミッツ担当戦域でのマリアナ諸島攻略戦貢献したのもATISである。マッカーサーOSS嫌いは有名だが、個人的感情よるものではない。マッカーサーは、統合参謀本部太平洋戦線を主に担当する合衆国艦隊司令長官兼海作戦部アーネスト・キング大将とは、対日戦構想が全く違って対立しており(キングフィリピン素通り主張マッカーサーフィリピン奪還固執1944年7月ルーズベルト大統領裁定マッカーサー採用)、統合参謀本部指揮下のOSS南西太平洋戦域活動することを認めなかった。 一方フェラーズ旅行3度訪日しただけで、日本での勤務経験はなく、英語でラフカディオ・ハーンなどの著作読んでいて日本語読み書きできないG2将校任務外されフェラーズは、マッカーサー総司令部心理戦担当となり、ATISのマシュバー調整官に部下二世語学兵を求めた日本本土侵攻オリンピック作戦準備のため、陸軍省G2全ての二世語学兵をATIS指揮下に入れた。したがって二世語学兵たちを統括しATIS調整官マシュバー大佐アメリカ陸軍G2将校日本人心理を最もよく知る1人だったことは確実であり、日本放送協会(NHK)が1997年6月15日放映したNHKスペシャル昭和天皇二つ独白録』」制作のため、フェラーズ1人娘にマッカーサー記念館(MacArthur Memorial)へ複写を提供させたフェラーズ文書元にした、東野真(解説粟屋憲太郎吉田裕)、ジョン・ダワーハーバート・ビックス岡本嗣郎井口治夫、加藤哲郎らや、映画終戦のエンペラー』の描くフェラーズ像は、ATIS存在活動知らない無視してフェラーズマッカーサー対す影響力過剰すぎるほど過大評価したものであり(エドウィン・ライシャワー文書も、G2将校時代文書公開されていない)、第二次世界大戦ヨーロッパで戦い対す関心低くフェラーズ北アフリカ戦線犯したG2将校としての致命的失態知られていない日本国民対象とした大がかりディスインフォメーションと、駄場裕司推測している。『終戦のエンペラー』が取り上げたフェラーズ活動は、実際ATISのジョン・アンダートン少佐助けられながらの裏工作だった。 『終戦のエンペラー』でフェラーズクエーカー平和主義者として描かれているが、実際フェラーズは、アメリカの極右団体ジョン・バーチ・ソサエティ加入した反共主義者だった。マーク・ゲインマッカーサーにとってのフェラーズ役割は、クエーカー同士親し共和党保守派主流派)のハーバート・フーヴァー大統領らとのパイプ役だとしている。マッカーサー軍医出身参謀総長となった陸軍非主流派のレオナード・ウッド(Leonard Wood)少将(父アーサー・マッカーサー・ジュニアの元部下)のお気に入りで、ウッド1912年大統領選挙共和党割って革新党設立したセオドア・ルーズベルト大統領盟友であるため、共和党革新派非主流派)の系譜連なる陸軍主流派の最高実力者第一次世界大戦アメリカ遠征軍最高司令官で、参謀総長となったジョン・パーシング元帥は、外見的な規律ではアメリカ軍低レベル州兵師団、第42歩兵師団(42nd Infantry Division (United States) 通称レインボー師団」)の部隊最前線指揮してアメリカ軍将官としては最高の戦功挙げたマッカーサー第一次世界大戦中から嫌っており、女性問題パーシングと、その副官の元愛人結婚した)で、士官学校校長から、マニラ軍管区(Military District of Manila)司令官という実体のないポスト(すでにフィリピン軍管区(Philippine Department)司令官存在)を創設し追放した当時フィリピン総督ウッド)。マッカーサーパーシング元帥定年退役して参謀総長降りるまでアメリカ本国戻れなかった。パーシングお気に入り自分参謀副官として使ったマーシャルだった。逆にマッカーサー自分参謀総長時代マーシャルパーシングお気に入り冷遇した(マーシャルを、その希望反してモートリー要塞(Fort Moultrie)司令から、イリノイ州州兵師団の第33歩兵師団(33rd Infantry Division (United States))シニア・インストラクターへ異動)。 第二次世界大戦中から陸軍主流派実力者マーシャルアイゼンハワー嫌われていたフェラーズは、戦後畑違い陸軍航空軍1947年空軍として独立)の利害代弁する戦略核爆撃機増強論者となった第二次世界大戦後軍事費削減大佐降格となり、1940年9月制定選抜訓練徴兵法(Selective Training and Service Act of 1940)で編成され合衆国陸軍(Army of the United States)が解散される退役大佐1948年6月退役准将昇進した1948年大統領選挙では、共和党保守派ロバート・タフト上院議員陣営活動した

※この「太平洋戦線への転属」の解説は、「ボナー・フェラーズ」の解説の一部です。
「太平洋戦線への転属」を含む「ボナー・フェラーズ」の記事については、「ボナー・フェラーズ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「太平洋戦線への転属」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「太平洋戦線への転属」の関連用語

1
6% |||||

2
2% |||||

太平洋戦線への転属のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



太平洋戦線への転属のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのボナー・フェラーズ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS