太平洋戦争開戦~1942年中盤まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 00:16 UTC 版)
「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争開戦~1942年中盤まで」の解説
太平洋戦争開戦時、第12駆逐隊(白雲、叢雲、東雲)は引き続き第一艦隊隷下の第三水雷戦隊(司令官:橋本信太郎少将)に所属していた。三水戦は馬来部隊(馬來部隊指揮官:南遣艦隊司令長官小沢治三郎海軍中将)に編入され、南方作戦にともなうマレー作戦に従事した。 12月17日、12駆僚艦「東雲」がボルネオ島攻略作戦で空襲により沈没、翌年1月15日に12駆から除かれた。12駆(白雲、叢雲)は引き続き馬來部隊としてシンガポール周辺掃蕩戦や蘭印作戦に従事し、1942年(昭和17年)3月1日にはバタビア沖海戦に参加する。第七戦隊第2小隊(三隈、最上)を含む馬來部隊からの派遣部隊は第五水雷戦隊と協力し、米重巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CA-30) 、オーストラリア軽巡パース (HMAS Perth, D29) 、オランダ駆逐艦エヴェルトセン (Hr.Ms. Evertsen) を撃沈した。 3月10日、第12駆逐隊は解隊された。「叢雲」は第11駆逐隊に、「白雲」は第20駆逐隊に編入された。第20駆逐隊(朝霧、天霧、夕霧、白雲)を含め馬來部隊はスマトラ島攻略作戦と、アンダマン・ニコバル諸島攻略作戦、ビルマ輸送作戦等を実施した。3月下旬、馬來部隊指揮官(第一南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将)は臨時部隊を編制し、ベンガル湾で独自の作戦を行う方針を示した(ベンガル湾機動作戦)。馬來部隊は5分割され、北方隊は第七戦隊司令官栗田健男少将の指揮する重巡「熊野」と「鈴谷」および駆逐艦「白雲」であった。4月1日、馬來部隊機動部隊はメルギーから出撃する。北方隊は輸送船8隻を撃沈した。 4月10日、第二段作戦第一期兵力部署の発動により馬來部隊に派遣されていた部隊や艦艇は小沢長官の指揮下を離れ、三水戦も内地にもどった。5月下旬から6月上旬のミッドウェー作戦における第三水雷戦隊は、連合艦隊司令長官山本五十六大将と第一艦隊司令長官高須四郎中将の戦艦部隊を護衛した。この頃、舞鶴海軍工廠では夕雲型駆逐艦「巻波」を建造していた。6月30日、白雲駆逐艦長人見豊治中佐は巻波艤装員長に任命される。後任の白雲艦長は佐藤重吉少佐であった。ミッドウェー海戦の敗北後、第七戦隊や第三水雷戦隊は7月下旬のインド洋方面通商破壊作戦(B作戦)に転用された。
※この「太平洋戦争開戦~1942年中盤まで」の解説は、「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の解説の一部です。
「太平洋戦争開戦~1942年中盤まで」を含む「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事については、「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の概要を参照ください。
- 太平洋戦争開戦~1942年中盤までのページへのリンク