ボルネオ島攻略作戦
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「狭霧 (駆逐艦)」の記事における「ボルネオ島攻略作戦」の解説
12月11日、馬來部隊水上部隊はカムラン湾(ベトナム中南部)に集結し、続いて第二次マレー上陸作戦と、ボルネオ島攻略作戦を発動する。北部ボルネオ島攻略に投入される日本陸軍は、第18師団より抽出された川口支隊(歩兵第三十五旅団長川口清健陸軍少将)であった。ここで馬來部隊の兵力部署が変わり、第七戦隊司令官栗田健男少将を指揮官とする護衛隊本隊が編成された。このうち第七戦隊第1小隊(熊野〈艦長田中菊松大佐〉、鈴谷〈艦長木村昌福大佐〉)、駆逐艦2隻(吹雪、狭霧〉)はボルネオ作戦支援を命じられる。本隊の他にも、第五潜水戦隊・第二航空部隊・第二護衛隊がボルネオ上陸作戦支援を命じられ、各部隊所属艦艇(特設水上機母艦神川丸、軽巡洋艦由良、第12駆逐隊〈叢雲、白雲、東雲〉、第七号駆潜艇、輸送船10隻)もボルネオ島西岸に向かう。 12月13日午前、第二次マレー上陸部隊(第三水雷戦隊他)、ボルネオ攻略部隊(指揮官小川延喜第12駆逐隊司令。駆逐艦〈叢雲、白雲、東雲〉、軽巡〈由良〉、特設水上機母艦〈神川丸〉、第七号駆潜艇、海軍輸送船5隻、陸軍輸送船5隻)、栗田少将直率の護衛隊本隊(熊野、鈴谷、吹雪、狭霧)、小沢中将の巡洋艦2隻(鳥海、鬼怒)は順次カムラン湾を出撃、目的地に向かった。12月15日深夜から16日未明にかけて、船団部隊はボルネオ北部サラワク王国のミリに到着する。上陸作戦は成功し、油田施設も占領した。だが12月17日朝、ミリ攻略部隊は度重なる空襲を受ける。同日午前中には、駆逐艦東雲(第12駆逐隊)がミリ沖合で轟沈した。同日、小沢中将(馬來部隊指揮官)は第一掃海隊第1小隊(第三号掃海艇、第六号掃海艇)と野島丸を、東雲を喪失した第二護衛隊に編入した。また軽巡洋艦鬼怒も、護衛隊本隊(栗田少将、旗艦熊野)に編入された(鬼怒は19日1045に熊野他と合同)。 12月18日以降、ボルネオ島西部の天候は不良となり、ミリの飛行場整備も遅延していた。日本陸軍側は「飛行場に海軍基地航空部隊が進出しない限り、クチン攻略を延期する」と申し入れた。攻略部隊は連日連合軍機の空襲を受け、神川丸水上機部隊の奮戦で切り抜ける。12月20日1410、小沢中将はクチン攻略の3日延期を決定した。12月22日1500、ミリ飛行場に零式艦上戦闘機15、陸上攻撃機9が進出、クチン上陸作戦の準備が整う。 12月22日1500、第二護衛隊(叢雲、白雲、掃海艇2隻)、陸軍輸送船(香取丸、日蘭丸、日吉丸)、海軍特設艦船(北海丸、第三図南丸、第二雲洋丸)、軽巡由良、特設水上機母艦神川丸はミリを出撃した。洋上待機していた護衛隊本隊(巡洋艦3隻〈熊野、鈴谷、鬼怒〉、駆逐艦2隻〈吹雪、狭霧〉)も攻略船団に近接、船団斜前20浬附近を航行した。同日、伊号54潜水艦よりクチン方面に敵潜水艦行動中の情報があり、各隊は対潜警戒を厳重にする。12月23日朝より、攻略部隊は連合軍飛行艇に触接された。同日夕刻に零戦が去ると再び連合軍飛行艇が出現、神川丸観測機がこれを撃墜している。前路掃蕩中の第6号駆潜艇や、哨戒中の伊五四潜からはクチン方面に敵潜水艦所在の報告が入った。実際にはオランダ海軍の潜水艦3隻が泊地に接近していた。22時40分以降、オランダ潜水艦K XIVはクチン泊地周辺の日本軍輸送船団を襲撃した。輸送船香取丸(歩兵第三十五旅団長川口清健少将乗船)、日吉丸、北海丸、第三図南丸が相次いで魚雷攻撃を受け、大破する(香取丸は24日午前9時に沈没)。第七戦隊司令官栗田健男少将(熊野)は、救援のため狭霧を泊地に派遣した。一方、小沢中将の命令を受けて第七戦隊第2小隊(三隈、最上)、第11駆逐隊第1小隊(初雪、白雪)、給油艦襟裳は、第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)に合流するため急行していた。 クチン攻略部隊は12月24日午前3時頃より上陸作戦を開始、これは予定より三日遅れであった。連合軍機による空襲を受けるが、クチン占領は順調に進んだ。狭霧は同日午前8時30分にクチン泊地に到着、損傷船の救助作業に従事した。救助活動が一段落すると、駆逐艦3隻(叢雲、狭霧、白雲)は泊地周辺の警戒任務に従事した。同日20時45分、クチンから約35マイル沖を航行中の狭霧は、オランダ海軍潜水艦のK XVIから雷撃された。魚雷は狭霧の右舷後部に命中。爆雷の誘爆による火災が弾薬庫及び搭載魚雷に引火、大爆発を引き起こし、狭霧は被雷後約15分間で沈没した。第三号掃海艇や僚艦の短艇が救助をおこない、叢雲は周辺海域の制圧(2115に魚雷2本を回避、爆雷攻撃により敵潜撃沈確実を報告)、白雲は護衛および救助を実施した。12月28日時点において、狭霧生存者は駆逐艦長以下119名、戦死者121名と報告されている。 狭霧沈没の報告を受けた栗田少将(第七戦隊司令官)は、第七戦隊を護衛中の第11駆逐隊より2隻(吹雪、初雪)を現場に急派する。12月25日午前8時、11駆2隻(吹雪、初雪)は現場に到着、狭霧生存者は吹雪に移乗した。その後、小沢中将の命令により、3隻(熊野、鈴谷、吹雪)はカムラン湾に帰投した。 1942年(昭和17年)1月15日、日本海軍は前年度中に喪失した駆逐艦4隻(東雲、狭霧、如月、疾風)および潜水艦や掃海艇を除籍する。本艦は吹雪型駆逐艦、第20駆逐隊、帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。同日附で杉岡幸七中佐は狭霧駆逐艦長の職務を解かれて第十港務部部員となる。他の狭霧幹部達も職務を解かれた(水雷長諸石高大尉、航海長小泉申平中尉、砲術長田中健一中尉、乗組河原崎勇少尉〈後日、駆逐艦秋月沈没時水雷長〉)。 3月10日、解隊された第12駆逐隊から吹雪型8番艦白雲が編入され、第20駆逐隊は定数4隻(天霧、朝霧、夕霧、白雲)を回復した。狭霧乗組員の一部は藤永田造船所で建造中の夕雲型駆逐艦2番艦「巻雲」(艤装員長/駆逐艦長藤田勇中佐)に配属され、3月14日の同艦竣工を迎えた(諸石高大尉は巻雲水雷長、田中健一中尉は巻雲砲術長)。狭霧沈没時の艦長だった杉岡中佐は9月10日附で駆逐艦大潮艦長に任命され、続いて第4駆逐隊所属の駆逐艦嵐艦長へ転任。ベラ湾夜戦における嵐沈没時に戦死した。
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