ベラ湾夜戦
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ベラ湾夜戦(ベラわんやせん)は、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)8月6日、ソロモン諸島ベラ湾で生起した海戦[2]。日本軍のコロンバンガラ島への輸送部隊が、アメリカ軍の水雷戦隊に邀撃され、日本側駆逐艦3隻が沈没した[3]。 アメリカ軍側の呼称はヴェラ湾海戦(Battle of Vella Gulf)[4][5]。
注釈
- ^ 「○五、被害「夕暮」船体切断沈没。「清波」、「夕暮」救助ニ向ヒタルマヽ0230以後消息ナシ。「熊野」艦尾魚雷命中、浸水、舵操舵不能。」
- ^ 「○第十六駆逐隊(二三-二二四五)揚陸終了、皈途ニ就ク。一部残リタルモノアリ、調査中。《揚陸地ヲ「アリエル」トシタルタメ、大発二十数隻行動中可能ノモ〔ノ〕十八隻ノミ、「雪風」「三日月」「浜風」ナリ。」
- ^ 「○外南洋部隊(二八-一八四一)作428号 一、増援部隊指揮官ハ駆逐艦四ヲ以テ左ニ依リ海軍部隊ヲRXP(ブイン)ヘ、又陸軍部隊ヲRWN(コロンバンガラ)ヘ輸送スル作戦ヲ実施スベシ。(七-三一-二二〇〇、海軍部隊ヲ ラボール ヨリ駆逐艦三ニヨリ ブイン ヘ、ブイン ヨリ陸軍(第二十三聯隊第三大)ヲ コロンバンガラ ニ輸送ス)」
- ^ 「(三)第二十四驅逐隊(涼風、海風略)江風 NTBニ編入中ニシテ前月三十日「トラツク」發今月一日「ラバウル」着爾後同方面作戰行動中ノ處八月六日夜4dg(杯風、嵐)、27dg(時雨)ト共ニ陸兵「コロンバンガラ」輸送任務中敵巡洋艦二以上驅逐艦三及飛行機、魚雷艇多數ノ包囲攻撃ヲ受ケ4dg(萩風、嵐)ト共ニ「コロンバンガラ」島「シヨルダーヒル」ノ三一〇度十九浬附近ニテ遭難沈没ス」
- ^ 「○第四駆逐隊(二七-〇八三七)(戦闘経過略)八月二十四日迄ニ判明セシ人員被害 三艦ノ生存者合計、海190、陸120。」
- ^ 「○第二十七駆逐隊(〇六-二二三二)二二〇〇QHF〔ベラ海湾〕海面ニテ敵駆逐艦三、魚雷艇、飛行機ノ包囲攻撃ヲ受ケ、「嵐」「江風」魚雷命中、火災。敵駆逐艦ニ雷撃セシモ効果不明。戦場ヲ一時避退ス。」
- ^ 「○所見 (イ)敵ハ「コロンバンガラ」島ヲ背景トシ、狭視界巧ミニ接敵発射、雷撃効果ヲ確メ砲撃セルモノニシテ、早クヨリ電探ヲ使用シ、魚雷戦準備ヲナセルコト確実ナリ。電探、逆探装備ヲ要ス。優秀駆逐艦ヲ輸送作戦ニ使用セズ、優速輸送船ヲツクルコト。砲、人力旋回力ヲ強化スルコト。」
出典
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- ^ #S1806二水戦日誌(2)p.6「(四)第二十七驅逐隊 時雨 引續キNTBニ在リ同方面作戰中ニシテ六日4dg(萩風、嵐)江風ト共ニ「コロンバンガラ」輸送任務ニテ敵巡二以上驅逐艦三及飛行機魚雷艇多數ト交戰驅逐艦一ニ魚雷一本命中大破セシム」
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ベラ湾夜戦
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詳細は「ベラ湾夜戦」を参照 1943年(昭和18年)8月6日、ブインおよびコロンバンガラ島への輸送のため増援部隊はラバウルを出港し、第三水雷戦隊旗艦(司令官伊集院松治少将)の軽巡川内(陸兵450名、物資130トン)はブインへ向かい、駆逐艦4隻(萩風《第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐座乗》、嵐、江風、時雨)はコロンバンガラ島へ向かう。警戒隊は時雨(第27駆逐隊司令原為一大佐)、輸送隊は3隻(第4駆逐隊《萩風、嵐》、第24駆逐隊《江風》)で、輸送兵力は陸兵950名と物資90トンである。日中の時点で輸送隊はアメリカ軍哨戒機に捕捉され、行動を報告されていた。これに対し、日本側は「敵有力部隊策動の恐れあり」程度にしかアメリカ軍の行動を把握しておらず、予定されていた水上偵察機の夜間哨戒も天候不良を理由に中止されている。 同日夜、コロンバンガラ輸送隊はソロモン諸島コロンバンガラ島沖(ベラ湾)にて、フレデリック・ムースブラッガー中佐指揮下の米水上部隊(駆逐艦6隻)と交戦した(ベラ湾夜戦)。戦闘当時の天候は曇りで視界不良。萩風-嵐-江風-時雨の単縦陣はアメリカ軍のレーダーに捕捉され、先制雷撃を受けた。敵艦隊に気付いたものの回避は間に合わず、まず江風が轟沈した。その後の砲撃により第4駆逐隊2隻(嵐、萩風)も相次いで沈没した。完全な奇襲の上に複数方向から雷撃・砲撃されたため、日本側は水上艦艇・魚雷艇・飛行機による同時攻撃と錯覚している。 嵐は左舷への被雷と共に主砲も魚雷発射管も使用不能となり、搭載していた陸軍物資弾薬に引火して炎上した。前部に残っていた25mm機銃で最後まで反撃に努めた。しかし米艦隊の砲撃により、間もなく沈没している。嵐では艦長以下178名(または182名)が戦死(艦長は脱出したものの生還せず)、生存者は嵐、萩風各艦約70名、江風約40名。三隻が分乗させていた陸軍兵は940名中約820名が戦死した。生存者はベララベラ島に漂着し、その後救出された。 生還した日本側駆逐艦は時雨のみであった。時雨は魚雷8本を発射するも、効果はなかった(時雨側は駆逐艦1隻に命中と誤認)。その後、米艦隊の追撃を振り切った時雨は生存者の救助を陸上部隊に依頼、ブイン輸送を終えた川内と合流してラバウルへ帰投した。8月9日、大本営は「飛行機、魚雷艇と協同する敵水雷戦隊と交戦、駆逐艦1隻を撃沈、わが方もまた駆逐艦1隻沈没、1隻大破」と発表した。アメリカ軍の発表は「日本軍巡洋艦2隻撃沈・駆逐艦1隻撃沈、駆逐艦1隻撃破」だったという。 駆逐艦嵐と萩風は10月15日附で不知火型駆逐艦第4駆逐隊、帝国駆逐艦籍、それぞれから除籍された。
※この「ベラ湾夜戦」の解説は、「嵐 (駆逐艦)」の解説の一部です。
「ベラ湾夜戦」を含む「嵐 (駆逐艦)」の記事については、「嵐 (駆逐艦)」の概要を参照ください。
ベラ湾夜戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 18:48 UTC 版)
「江風 (白露型駆逐艦)」の記事における「ベラ湾夜戦」の解説
「ニュージョージア島の戦い」も参照 修理完成後の5月27日より、給糧艦「伊良湖」、特設巡洋艦「愛国丸」を佐世保からトラック泊地まで護衛し、6月中旬、二水戦2隻(神通、江風)は第二航空戦隊(空母隼鷹、飛鷹)基地要員のルオット輸送に従事、同島の補給状況を見た二水戦司令官伊崎俊二少将は輸送物件に加えて2隻(神通、江風)の糧食まで陸揚させている。 6月27日、第24駆逐隊司令駆逐艦は「涼風」に変更となる。6月末、重巡「鳥海」、護衛駆逐艦(雪風、涼風、江風、谷風)と共をラバウルへ進出中、「江風」は軸受故障によりトラックに引き返した。7月6日、クラ湾夜戦に参戦した「涼風」が損傷する(第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将戦死、三水戦旗艦新月沈没)。7月8日、第24駆逐隊司令は中原義一郎大佐から久保田智大佐(海兵46期)に交代した(中原は8月20日より、夕雲型駆逐艦3隻《涼波、藤波、早波》で編成された第32駆逐隊司令)。7月12日、「江風」は米潜水艦スピアフィッシュ (USS Spearfish, SS-190) と交戦し損傷した。 7月13日、軽巡「神通」(二水戦旗艦)がコロンバンガラ島沖海戦で沈没、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将と共に二水戦司令部も全滅する。そこで第四水雷戦隊が解隊され、同隊戦力(司令官高間完少将:旗艦長良、第27駆逐隊《時雨、白露、有明、夕暮》、五月雨等)がそのまま第二水雷戦隊に転用された。修理を終えた「江風」は7月30日トラックを出発、8月1日ラバウルに到着した。8月2日より「江風」は駆逐艦「松風」を指揮してツルブ輸送に従事した。この任務では陸兵のほかにも便乗者がいた。ツルブ行の便では7月28日に座礁沈没した駆逐艦三日月を調査するための調査員4名(同艦駆逐艦長ふくむ)を輸送、帰路には三日月と共に座礁沈没した駆逐艦有明生存者56名を輸送している。 詳細は「ベラ湾夜戦」を参照 8月6日、第三水雷戦隊旗艦の川内型軽巡1番艦「川内」および駆逐艦4隻(指揮官杉浦嘉十大佐/第4駆逐隊司令:第十戦隊・第4駆逐隊《萩風、嵐》、第二水雷戦隊・第24駆逐隊《江風》、第27駆逐隊《時雨》)はラバウルを出撃する。前日の輸送作戦で駆逐艦「天霧」がアメリカ軍魚雷艇(艇長ジョン・F・ケネディ中尉)と衝突して損傷したため、その代艦として「江風」が参加することになったのである。「川内」がブイン輸送に向かい、輸送隊3隻(萩風、嵐、江風)・警戒隊時雨がコロンバンガラ島へ向かう。対するアメリカ軍は先のクラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖夜戦で巡洋艦部隊に多大な損害を受けており、日本艦隊の迎撃に駆逐隊を投入することにした。フレデリック・ムースブラッガー中佐が率いるのは、アメリカ軍第31.2任務群の駆逐艦6隻(第12駆逐隊《ダンラップ、クレイヴン、モーリー》、第15駆逐隊《ラング、スタレット、スタック》)であった。 8月6日21時30分、コロンバンガラ島とベララベラ島に挟まれたベラ湾を哨戒するアメリカ軍駆逐隊は、レーダーで南南東へ進む日本艦隊を探知すると、魚雷24本を発射した。萩風-嵐-江風-時雨の単縦陣を形成していた日本艦隊は、駆逐艦3隻(萩風、嵐、江風)が同時に被雷、回避できたのは「江風」の後方1000mを航行していた「時雨」だけだった。なお日本軍は巡洋艦2隻以上、駆逐艦3隻、航空機、魚雷艇の包囲攻撃を受けたと錯覚している。 「江風」はスタレット(USS Sterett, DD-407)、スタック(USS Stack, DD-406)からの砲撃雷撃を受け沈没、柳瀬艦長以下169名が戦死した。ほぼ轟沈であった。沈没地点記録南緯07度50分 東経156度54分 / 南緯7.833度 東経156.900度 / -7.833; 156.900。また第4駆逐隊(萩風、嵐)も一方的に撃沈された。「時雨」は魚雷8本を発射して反撃したが戦果をあげるに至らず、魚雷の次発装填を終えて戻ってきたものの、米艦隊と交戦することなく戦場を離脱。「川内」と合流してラバウルへ戻った。輸送作戦は完全に失敗し、輸送隊3隻が分乗していた増援部隊940名のうち820名が戦死したとされる。 10月15日、「江風」は白露型駆逐艦第24駆逐隊、帝国駆逐艦籍、それぞれから除籍された。10月31日、朝潮型(満潮型)駆逐艦「満潮」が第24駆逐隊に編入され、同隊は3隻(海風、涼風、満潮)編制となった。
※この「ベラ湾夜戦」の解説は、「江風 (白露型駆逐艦)」の解説の一部です。
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