7月下旬のソロモン諸島方面輸送作戦
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「ベラ湾夜戦」の記事における「7月下旬のソロモン諸島方面輸送作戦」の解説
「コロンバンガラ島沖海戦#海戦の後」も参照 6月30日にアメリカ軍はレンドバ島に上陸し、7月5日にはニュージョージア島へ上陸した。その過程の中で、7月5日夜にクラ湾夜戦、7月12日夜にはコロンバンガラ島沖海戦と二つの海戦が生起した。この二つの海戦において、日本海軍は秋月型駆逐艦新月(クラ湾夜戦、第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将戦死)と軽巡洋艦神通(コロンバンガラ島沖海戦、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将戦死)を失い、アメリカ海軍は軽巡洋艦へレナ (USS Helena, CL-50) を失った他、他の軽巡洋艦が多大なる損害を受けた。二度の海戦で日本艦隊と戦いを交えた第36.1任務群(ヴォールデン・L・エインスワース少将)は戦力が著しく衰退し、ソロモン方面で活動を続けていたもう一つの有力な水上部隊である第36.9任務群(アーロン・S・メリル少将)は、日本艦隊と会敵する事なくエスピリトゥサント近海で行動していた。日本海軍はこの好機に乗じて重巡洋艦3隻(熊野、鈴谷、鳥海)と水雷戦隊を繰り出してアメリカ艦隊と対決しようとしたが空振りに終わり、夜間爆撃を受けて重巡熊野(第七戦隊司令官西村祥治少将)大破・駆逐艦2隻(初春型駆逐艦夕暮、夕雲型駆逐艦清波)沈没という損害を受けてしまった。昼夜分かたぬ航空攻撃を避けるため、日本海軍はこれ以降コロンバンガラ島への輸送作戦に使用するルートをベラ湾、ブラケット水道経由に切り替える事を余儀なくされた。 7月21日には、水上機母艦日進と陽炎型駆逐艦3隻(第4駆逐隊〈萩風、嵐〉、第17駆逐隊〈磯風〉)が南海第四守備隊と軍需物資(戦車、重砲、弾薬)を満載してラバウルを出撃したが、ブイン到着直前の7月22日正午頃に大規模空襲を受けて、日進は撃沈された。ラバウル帰投後、第十戦隊所属の第4駆逐隊(駆逐隊司令杉浦嘉十大佐)は外南洋部隊(指揮官鮫島具重第八艦隊司令長官)隷下の外南洋部隊増援部隊(指揮官伊集院松治第三水雷戦隊司令官)に編入され、駆逐艦2隻(萩風、嵐)はソロモン諸島に残った。この頃、日本軍上級部隊(大本営陸軍部・海軍部、連合艦隊、第八方面軍、南東方面艦隊)は、遅くても九月中旬ころには中部ソロモンから撤退するという方針を固めていた。 一方のアメリカ軍はレンドバ島を占領すると、同島に魚雷艇基地を設営して4個魚雷艇隊計52隻と整備兵などを進出させた。魚雷艇隊は一隊あたり15隻で編成され、コロンバンガラ島の周囲で「東京急行(鼠輸送)」に対する哨戒任務にあたっていた。ルート変更後の日本海軍のコロンバンガラ島輸送作戦は7月23日から再開され、駆逐艦3隻(陽炎型〈雪風、浜風〉、睦月型〈三日月〉)が第三十八師団(影佐禎昭中将)の陸兵782名と物件56トンなどを搭載してラバウルを出撃する。魚雷艇の襲撃と夜間触接機の照明弾投下に遭いながらも輸送任務を完了してラバウルに帰投した。この時のルートはベララベラ島とその南方のラノンガ島間のウィルソン海峡およびギゾ海峡を通過して、ブラケット水道に面したコロンバンガラ島南西部のアリエルに至るものであった。続いて、サンタイサベル島レカタの陸軍部隊をブインへ輸送する作戦が駆逐艦3隻(萩風、嵐、時雨)により7月25日から7月27日にかけて行われた。ラバウルからは人員60名と物件77トンを輸送、帰路は陸軍部隊840名をブインに輸送するという内容である。基地航空部隊の掩護もあり、被害なく作戦を終えた。
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