7月の遅滞戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 08:39 UTC 版)
7月1日午後、第6師団に原州を放棄して忠州‐堤川の線まで後退するように下令した。夕方、第7連隊に神林里の峠を防御させ、主力をもって忠州北側の漢江線を防御した。しかし漢江線の韓国軍主力と第6師団の間には90キロメートル以上の間隙が出来ており、陸軍本部がある水原は開放されていた。陸軍本部は3日に第6師団に安城付近から忠州までの間を防御するよう命じられ、金鐘五は第2連隊第2大隊を成歓方面、第19連隊を安城東側、第7連隊を忠州に急進させて防御した。 7月4日、陸軍本部は第6師団に「一部を持って第8師団の転進を掩護するとともに全力を持って安城東側-陰城の線を確保せよ」と命じた。金鐘五は忠州の第7連隊を陰城に急派して第2連隊主力を忠州に留めて第8師団の転進を擁護させた。陰城に派遣された第7連隊は第15師団(朴成哲少将)第49連隊を待ち伏せで撃退している。 7月5日夜、第6師団司令部を忠州から曽坪に移動した。この時、師団の正面は70キロメートルにまで展開しており、アメリカ軍第34連隊の右翼を防御するとともに韓国軍第1軍団を掩護した。7月5日夕方に司令部を曽坪に移し終えた金師団長は無極里の奪回を決意し、7月6日に砲兵支援のもと第7連隊に奪回を命じた。第49連隊を撃退して無極里を奪回したが間もなく逆襲を受け陰城の旧陣地に後退した。 7月7日、忠州北側の漢江線で北朝鮮軍第12師団が渡河を開始したが第3大隊はこれを撃退した。翌8日、北朝鮮軍第12師団と北朝鮮軍第1師団(崔光少将)が攻撃を開始し、第2連隊は水安堡に撤収した。7月9日、第2連隊は反撃を開始して敵と数時間交戦した。しかし連隊の攻撃も底を尽き、敵が両翼を包囲し始めたので霧を利用して花泉里まで後退した。10日には第7連隊と第19連隊主力が集結した。 7月12日、北朝鮮軍第1師団が攻撃を開始した。第6師団は抵抗を試みながら小白山脈に撤収した。7月13日、梨花嶺と鳥嶺関南側に第2連隊、第19連隊を占領させ第7連隊を第2線に配備した。金師団長は不撤退を決意していた。7月14日、北朝鮮軍第1師団は再び攻撃を開始した。 7月15日に第2軍団(劉載興准将)が創設され、敵と交戦中であった第6師団と第8師団が編入された。第6師団は敵と交戦していたが北朝鮮軍第1師団が戦車を先頭にして、火力支援のもとに総攻撃をかけると第6師団は撃退され16日に玉女峰‐風鳴山の線に後退して戦線を整理した。 ところが左翼の第1師団との間に30キロメートルの間隙が出来ており、そこに第15師団が南下したため第2軍団に頴江の線への後退と1個大隊を化寧場に急派するよう命ぜられた。その後、第6師団は頴江を障害にして北朝鮮軍第1師団、北朝鮮軍第13師団(崔勇進少将)の猛攻を防いでいたが7月25日には頴江南岸の陣地は至る所で蚕食されていた。 7月27日、増援の韓国軍第1師団(白善燁准将)が到着すると、以後8月まで第1師団と共に2個師団との血戦が続けられた。
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