7月の後退戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:08 UTC 版)
7月6日夕方、陸軍本部の命令によって第1軍団は第1師団を陰城、首都師団を鎮川に急派し、第2師団を予備に控置した。首都師団と第1師団は北朝鮮軍と交戦したが、左翼のアメリカ軍が撃退されたため第1軍団は首都師団に後退、第1師団に敵を遅滞させながら槐山を経て米院方面に後退するように命じた。7月10日、敵と交戦していた第1師団、首都師団は撤収した。その後、第1師団は度々待ち伏せで敵を撃退した。 7月11日、首都師団は第18連隊を美湖川南岸に残置して主力は清州に後退した。夜に第1軍団の作戦会議が開かれ、軍団司令部を報恩に下げ、首都師団をもって清州南側の高地帯を防御させ、第2師団をもって鳥致院方面に備えることになった。遅滞戦闘を続けていた第1師団には、なるべく槐山を長く確保した後、米院に後退するように指導した。 7月13日、第1軍団は清州北方まで迫った北朝鮮第2師団に軍団砲兵の集中射撃をした。北朝鮮第2師団は約800人の死傷者を出したが南下を続け、首都師団と交戦した。7月16日に左翼のアメリカ第24師団が撃退されたため、首都師団に報恩付近への後退を命じた。 7月17日、第1軍団と第6師団の間隙を突いて北朝鮮第15師団が尚州に向けて南下していたため陸軍本部の命令により第1軍団は第17連隊を化寧場に急派して南下する第15師団を阻止し、首都師団を東部方面の安東に転進させた。さらに第1師団を報恩‐尚州正面、第2師団を報恩‐黄澗道正面の遅滞を命じた。 7月末、第1軍団司令部は東部に移動し、再編成により隷下部隊は第8師団(師団長:李成佳大佐)、首都師団(師団長:金錫源准将)となった。
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