7月の作戦経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:02 UTC 版)
6月28日、陸海軍中央協定に基づき大本営海軍部は大海指第524号を発し、海軍総司令長官小沢治三郎中将に日号作戦開始を指示した。 積み出し港には朝鮮半島沿岸の諸港が利用され、中でも羅津が中心となった。陸揚げ港としては、機雷封鎖で瀬戸内海の主要港が使用不能のため、北部九州から北陸地方にかけての日本海側の港が広く使用された。山陰地方西部では江崎港(山口市)や油谷湾などの小港に仮設桟橋を設置してまで利用した。荷役用の艀を瀬戸内海からも回航し、上陸用舟艇も代用に投入した。作業員としては本業の沖仲仕に加えて兵士も出動した。 船の絶対数不足に加え、陸揚げ港には設備不十分な小港が多くて船の稼働効率が落ちたこともあり、当初は満州各地から集積された物資が積み出し港に停滞してしまった。その後、仮設港湾などが機能して日本本土への陸揚げまでの効率は上がったが、今度は陸揚げ後の陸上輸送能力が不足して、陸揚げ地に物資が停滞してしまった。鉄道引き込み線の増設も行われたが間に合わず、露天集積されたモロコシが雨に打たれて発芽する有様であった。 この間にもアメリカ軍の飢餓作戦は続き、日本海沿岸諸港へも次々と機雷が投下された。朝鮮半島に近い北部九州などは6月中から投下を受けていたのが、7月にはさらに範囲が広がって遠く秋田県の船川港まで及び、朝鮮半島沿岸も機雷投下を受けた。機雷の投下数は7月9日以降の分だけで3746個に上った。うち420個が集中投下された羅津は、客船の運航停止に追い込まれた。量の多さに加えて機雷の種類も多様で、磁気・水圧・音響などの各種起爆装置が混用されたため、技術的に掃海は不可能だった。日本海軍では、日本海航路を含め日本の港湾の完全封鎖も時間の問題と考えるようになった。 7月中旬には、アメリカ海軍の機動部隊が北日本一帯を攻撃し、北海道空襲などを行った。この攻撃で青函連絡船8隻沈没を含む汽船46隻(11万総トン)と機帆船150隻が使用不能となり、北海道からのジャガイモなどの食糧や石炭の輸送も激減することになった。 以上のように多くの障害と犠牲がありながらも、7月中の日本の海上輸送実績は95万4千トンを記録している。これは目標の60万トンに対して150%以上の達成率という好成績だった。
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