7月の洪水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:43 UTC 版)
「明治十八年の淀川洪水」の記事における「7月の洪水」の解説
まだ浸水地域の排水が終わっていない27日の夜から雷雨が始まり、28日は台風の影響で大雨となった。29日は風が強まり、7月1日は暴風雨となって、2日には修復中だった伊加賀の堤防が再び決壊し、再び淀川の水が南側にあふれた。さらに、現・都島区の桜宮の堤防も三か所決壊し、「わざと切れ」を行った大長寺裏の堤防からも大川の水が入ってきた。 今回の洪水はこれに収まらず、前回の洪水ではそれ以上の被害を防いでいた寝屋川の堤防が現・鶴見区の徳庵で決壊し、寝屋川に注ぐ他の河川も水が溢れ出した結果、洪水は寝屋川以南にまで拡大し、7月上旬には江戸時代の干拓で消滅したはずの深野池と新開池以上の大きな湖、かつての河内湖が地上に現れ出す始末であった。 さらに高潮まで加わって大阪湾の水が安治川を遡って現在の北区、西区一帯も浸水してしまったが、大阪天満宮のあたりは微高地だったために浸水を免れた。 7月の洪水により、6月の浸水地域は再び浸水し、新たに現在の大阪市北区、福島区、此花区、西区、港区、東成区、生野区、東大阪市、大東市、四条畷市が浸水した。 浸水被害面積は約15,269町歩(15142ha)で、当時の大阪府全体の世帯数の約20%となる72,509戸が最大で約4mも浸水したうえ、家屋流失1,749戸、同損壊約15,000戸、橋の流出512カ所、堤防の決壊224カ所、死者・行方不明者81名、被災者30万4,199人という甚大な被害が発生した。 家屋流失は茨田郡739戸、東成郡836戸で全体の90%、死者・行方不明者は茨田郡49名、東成郡13名で全体の77%を数え、大きな被害を出している。ただし、浸水戸数では西区23,116戸、西成郡14,253戸、北区8,691戸の被害が出ており、茨田郡6,996戸、東成郡4,421戸を上回っているがこれは主に台風による高潮のためである。 結局大阪市内では被害が少なかった淀川以北を除くと、大阪天満宮周辺、大阪城から天王寺間の上町台地一帯、船場周辺、大阪市南部を除くほとんどの低地部が水害を受けてしまった。 大川上流の川崎橋の他、浪華三大橋と呼ばれた天満橋・天神橋、そして難波橋の南半分(北半分は鉄橋)に淀屋橋も流された。最新式の可動式の鉄橋であった安治川橋に至っては漂流物が橋に引っ掛かって川を堰き止める様子を見せたので急いで陸軍が爆破した。こうして八百八橋とうたわれた大阪の橋は主な橋だけで30余りが次々に流失し、市内の交通のほぼ全てが寸断された。そこで7日になって陸軍が難波橋の南側に舟橋を設置した。 暴風雨がやむとようやく洪水も動きを止めた。次第に淀川の水位が低下してくると、浸水地域に溜まっていた水は決壊した各所の堤防の修理の甲斐もあり、長い時間はかかったが大長寺裏の堤防から排水されていった。 この洪水後、付近の郡は大阪府や国に淀川改修の誓願運動を起こし、やがて大阪府会も国に建議を提出。大橋房太郎が中心となったこれらの運動が実り、ついに日清戦争後の1896年(明治29年)に淀川改修を加えた公共河川法案が成立し、淀川改修費の予算も成立、この年から淀川の改修工事が始められることとなった。 なお、御堂を流され、境内も荒れ果ててしまった大長寺(近松門左衛門の人形浄瑠璃、「心中天網島」の舞台)であるが、1887年(明治20年)頃に藤田伝三郎にその土地を売却し、寺は移転して再興を果たした。大長寺があったその地に伝三郎は網島御殿と呼ばれる邸宅を建てたが、現在は藤田美術館、藤田邸跡公園、太閤園、大阪市公館となっている。 近くの桜之宮公園にはこの洪水に関する石碑が建っている。
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