原敕晁の安否情報と犯人らの消息とは? わかりやすく解説

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原敕晁の安否情報と犯人らの消息

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 01:25 UTC 版)

辛光洙事件」の記事における「原敕晁の安否情報と犯人らの消息」の解説

北朝鮮情報では、北朝鮮当局は「本人金儲け歯科治療」の意向を受け、1980年昭和55年6月17日原敕晁宮崎市青島海岸から連れ去ったものだと主張している。しかし、この説明辛光洙自身韓国供述した内容とは大きく隔たっている。北朝鮮側はまた、原はアベック失踪事件新潟福井鹿児島カップル3組拉致犯罪事件)の直前1978年6月)に拉致した田口八重子1984年昭和59年)に結婚したとしており、原は1986年昭和61年7月19日肝硬変死亡田口八重子同年7月30日交通事故死亡した説明した。もし、これが本当なら原敕晁48歳田口八重子29歳での結婚ということになるが、他のカップルとは異なり、この2人には拉致以前にまったく接点がなく、田口八重子の兄飯塚繁雄も「八重子が、年齢差20歳近くもある相手を選ぶとは考えにくい」としている。この件については、日本政府安否求めた13人のなかから北朝鮮側が単に恣意的結び付けただけではないかという見方が有力である。遺体について、北朝鮮側は2人一緒の墓に埋葬していたが、1995年7月洪水流失した説明している。いずれにしても原敕晁の「死亡情報」その他は北朝鮮一方的に伝えてきただけにすぎず、彼の安否依然不明のままである辛光洙1985年逮捕されたのち、済州島移り住んでいた金吉旭取材したのは朝日放送テレビ石高健次である。金吉旭石高取材対し自分拉致実行犯であることを認めたが、その際地面うずくまって号泣し慙愧に耐えない様子であったという。ジン・ネット(番組制作会社)の北朝鮮問題取材班もまた3度わたって金吉旭取材申し込んだが、いずれも拒否された。しかし、取材振り切って自宅内に逃げ込もうとする金吉旭に「宮崎で原さんを拉致しただろう」とジン・ネット取材班のメンバー詰め寄ると、彼は苦し紛れに「おれは別府までしか行ってない」と答えたという。 警視庁公安部は「宝海楼」の家宅捜索実施後工作員辛光洙共犯者金吉旭、さらにその後調べで、辛らに資金提供するなどして拉致指示した対外情報調査部副部長の姜海龍2011年国際手配し、北朝鮮対し所在確認身柄引き渡し要求している。なお、2016年7月23日朝鮮中央テレビ映像には辛光洙とみられる人物の姿が確認されている。また、ジン・ネットの取材によれば日本のこった三俊らは事情聴取すらされた形跡がなく、事件前同様「宝海楼」を営業し普通に暮らしていたという。

※この「原敕晁の安否情報と犯人らの消息」の解説は、「辛光洙事件」の解説の一部です。
「原敕晁の安否情報と犯人らの消息」を含む「辛光洙事件」の記事については、「辛光洙事件」の概要を参照ください。

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