拉致実行犯とは? わかりやすく解説

拉致実行犯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 08:47 UTC 版)

曽我ミヨシ」の記事における「拉致実行犯」の解説

拉致されたとき、ミヨシ48歳、ひとみはまだ19歳であった。袋に入れられ担がれたひとみは、小さな、おそらく木製の舟に乗せられて川から海へ出て、沖に出てから少し大きな船乗り換えさせられた。このとき、ひとみは船内たどたどしい日本語を話す女性声を聞いている。翌13日午後5時頃、船から降りた。そこは北朝鮮清津であった。拉致実行犯は4人組で、そのうち1人たどたどしい日本語を話す女工作員、通称「キム・ミョンスク」であった身長150センチメートル朝鮮労働党対外情報調査部所属していたとみられる拉致実行の少し前から佐渡潜伏していたという。3人の戦闘員日本語のできる1人工作員4人のチームという編成は、蓮池薫地村保志ら「アベック失踪事件」と称され拉致事件ケース共通している。キム・ミョンスクが日本語話した相手は、北朝鮮戦工作員ならば朝鮮語で話すはずなので、猿ぐつわされた曽我ミヨシだったのではないか考えられる。そしてまた拉致犯4人は曽我ひとみ連れてそのまま4人で清津まで行っているところから北朝鮮当局主張する現地請負業者」(後述)なるものは実在しないものと考えられる。 ひとみは清津招待所に少しいた後、夜行汽車に乗って翌朝平壌着いた平壌招待所には1週間ほどいて、別の招待所移動したが、そこには横田めぐみがいてすぐに仲良くなった。妹と同じ年ごろ親近感覚えたという。彼女の北朝鮮入国後の約4か月間、拉致実行犯の1人キム・ミョンスクは彼女の監視役であり、身の回り世話もしていた。また、拉致されてきて最初のころ、曽我ひとみ横田めぐみ北朝鮮での教育係は、原敕晁拉致実行犯の辛光洙であった。彼女は横田めぐみから朝鮮語初歩習い、彼女とのあいだで強い友情を育んだ。2人ともバドミントン経験者であり、2人してバドミントンをしたこともあった。2人は昼は朝鮮名呼び合うものの、夜は声をひそめて日本語さまざまなことを話したが、自身の母に対す思い強さ深さ共通していたという。ひとみは、一度母にあてて手紙書いている。 一緒に拉致された母ミヨシ行方はひとみにもわからず、彼女が日本に帰国するまで母はてっきり日本にいるものと思っていた。北朝鮮では彼女は「母は日本元気にしている」「朝鮮語覚えた日本帰してやる」と言われていた。ひとみ自身そのことを「24年間、ずっと騙されていた」と振り返っている。死んでしまおうかと思うときもあったが、日本にいる母に会いたいという思い乗り越えた。つらいときに支えてくれたのが母から贈られ男物腕時計で、これは看護仕事患者の脈を計ったりするには大きい方が便利だということ与えられたものである。彼女は拉致され24年間、途中で動かなくなってもこの時計を身につけていた。ひとみは1980年6月チャールズ・ジェンキンスの家に連れて行かれ8月8日、彼と結婚した

※この「拉致実行犯」の解説は、「曽我ミヨシ」の解説の一部です。
「拉致実行犯」を含む「曽我ミヨシ」の記事については、「曽我ミヨシ」の概要を参照ください。

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