海戦の後とは? わかりやすく解説

海戦の後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/01 04:12 UTC 版)

ブロック島沖の海戦」の記事における「海戦の後」の解説

グラスゴー乗組員戦死1人負傷3人の合計4人が損失だった。これは大陸海軍お粗末砲撃能力示していた。被害受けた全員マスケット銃よるものだった。カボー乗っていた4人が戦死し、7人が負傷したアルフレッドでは6人が戦死、6人が負傷した。アンドリュー・ドリアでは鼓手1人負傷していた。 大陸会議議長ジョン・ハンコックホプキンス艦隊功績称賛したが、グラスゴー捕まえ損なったことで、大陸会議周辺海軍対す反対者批判機会作ってしまった。ニコラス・ビドルはこの海戦について、「これより軽率で、指揮誤った事態起こりえない」と記したコロンバス艦長エイブラハム・ウィップルは暫く噂や臆病という告発に耐えていたが、その汚名をそそぐために軍法会議求めることになった。この航海参加した士官構成される陪審団によって軍法会議5月6日開催されウィップルは臆病の罪を晴らしたが、判断ミスについては批判された。プロビデンス艦長ジョン・ハザードはそれほど幸運ではなかった。グラスゴーとの戦闘中任務怠慢だったことなど、部下から様々な罪を告発され軍法会議有罪となり、その任官辞めさせられた。 ホプキンス代将はこの海戦関連が無いことで大陸会議査問受けたバージニアカロライナに行く代わりにナッソー航海したことで文書による命令違反しており、コネチカットロードアイランドへの航海中に得た戦利品大陸会議への相談無し配分していた。ホプキンスはこれらの罪にたいして問責され艦隊二度と航海できなくなったことなど更なる議論続いた後の1778年1月海軍から罷免された。艦隊多く艦船乗組員不足に陥り、イギリス軍1776年遅くニューポート占領したことで、艦隊ロードアイランドプロビデンス閉じこめられてしまった。 グラスゴーはこの海戦損傷を受け、任務捨ててニューポート戻った。その船体は非常に傷んでいたので、航海に耐えられるほどまで修理して修繕のために本国ポーツマスまで送られた。その任務ニューポート戦隊別の艦船HMSノーティラス渡された。

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海戦の後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/03 15:34 UTC 版)

USSコンスティチューション対HMSゲリエール」の記事における「海戦の後」の解説

デイカーズ艦長護衛されコンスティチューション移ったハルはデイカーズの降伏の剣の受け取り断りあれほど勇敢に戦った者から剣を受け取れない語った。またデイカーズの母の聖書を戻すよう命令もした。ゲリエールは明らかに沈みつつあり。負傷者コンスティチューション運ばれた。ハルはゲリエールで強制徴用されていたアメリカ人10人を見出したが、デイカーズは彼らに母国の者と闘う代わりに甲板下に留まっていることを認めていた。 ハルはゲリエールを戦利品として曳航していくことを望んだ。夜の間は、コンスティチューションがゲリエールの傍に付き添ったが、夜明けになるとゲリエールは最早助からないことが明白になった。捕虜アメリカ兵救難隊コンスティチューション移り午後3時にゲリエールに火が付けられ間もなく爆発したコンスティチューション巡航続けられたが(実質的に被害無く弾薬3分の2残っていた)、ハルアメリカ大衆勝利報せ持ち込みたい考えた10日後にボストン到着し、その知らせは(200名以上の捕虜という明白な証拠と共に歓喜引き起こした。ゲリエールはアメリカ商船停船させ捜索することで、イギリス海軍の最も活動的な艦の1つだったので、これを破ったという知らせは特にアメリカ船乗り社会満足のいくのだった皮肉にもハル再度戦闘指揮執ることは無かった。ゲリエールを破った日の3日前に、その伯父であるウィリアム・ハル将軍が、はるかに勢力に劣るイギリス軍シェルビー砦を降伏させていた(デトロイト包囲戦)。アイザック・ハルにとっても1つの不幸はその兄弟の死であり、その残され未亡人子供たちには、ハル面倒を見る義務生じていた。ハルはその新し責任対応する良い任務求めて海軍長官ハミルトンウィリアム・ベインブリッジ大佐指揮官交替できるかを尋ねたハルベインブリッジの下でバーバリ戦争戦っており、ベインブリッジ当時ボストン海軍工廠指揮官だった。ハミルトンがこれに同意し1812年9月15日ハル海軍基地の、ベインブリッジコンスティチューション指揮官就いた。 デイカーズは捕虜交換釈放されハリファックスに戻ると軍法会議掛けられた。これは如何なる理由でもイギリス海軍の艦を失った場合慣習だった。デイカーズは、ゲリエールが元々フランスで建造されたものであり、1806年イギリス海軍捕獲されたこと、それ故イギリス製の艦ほど頑丈ではなかったこと、さらに重要なことは、ゲリエールがかなり老朽化しており、当時艤装やり直すためにハリファックス向かっていたこと、戦闘初期ミズンマスト倒れてゲリエールの操艦難しくしたこと、それは戦闘受けた損傷同じくらい腐食していたこととい事実申し立てた。デイカーズと水兵達が最善尽くしたというような示唆や、デイカーズはコンスティチューション闘うほど軽率だったというような示唆無かった米英戦争初期ではイギリス海軍大砲38搭載フリゲート艦が、如何なる国の大砲44搭載フリゲート艦交戦することが認められていた。これらによってデイカーズは無罪となった

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海戦の後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 06:51 UTC 版)

セント・ジョージ岬沖海戦」の記事における「海戦の後」の解説

この戦闘日本側は「大型駆逐艦一隻轟沈 魚雷艇二隻撃沈一隻撃破」などの戦果報じたが、実際戦果ゼロだった。日本軍潜水艦遭難乗員救助にあたり伊号第一七七潜水艦伊177)は夕霧乗員および便乗278名を、伊号第一八一潜水艦伊181)は同じく11名を救助した。これとは別に巻波乗員のうち28名は11月29日カッターニューブリテン島沿岸ズンゲン地区漂着して救助された。それ以外大波乗員駆逐艦長吉川潔中佐以下全員戦死し夕霧駆逐艦長辻秀一少佐以下155名と便乗129名が戦死した戦死した吉川中佐これまでの戦功評価され二階級特進して少将に任ぜられた。バーク大佐後年、「燃料補給があと15分遅れていたら。この海戦生起しなかったであろう」と回想している。一方駆逐隊司令仲間では「暗号解読されていた」との噂が流れていた。 日本側の制海権喪失により、方面軍ブカ島への輸送中止する至った。この海戦以後駆逐艦による輸送作戦アドミラルティ諸島従前ら行われていたニューブリテン島へのものに限られるようになったブーゲンビル島死闘続け日本陸軍は、さらに苦し戦い強いられた。また一連の輸送作戦には、ラバウル航空隊から派遣され戦闘機護衛に就いていた。しかし、1944年に入る前後からラバウル燃料不足が深刻となり、一時駆逐艦トラック諸島全て引き揚げさせ、2月17日ごろには再びラバウル揃って進出させる予定だった。ところが、その217日から18日にかけてトラック島空襲があり、同島配備航空機大損害をうける。この被害中部太平洋方面戦局考慮した連合艦隊は、ラバウル所在第十一航空艦隊司令長官草鹿任一中将/南東方面艦隊長官兼任)に対しトラック航空戦力集中するよう命令したラバウル航空隊事実上その幕を閉じトラック撤退する事となった。第三水雷戦隊司令部航空援護なき輸送作戦は困難との判断達し2月20日行われた睦月型駆逐艦夕月姉妹艦水無月によるガブブ地区への輸送最後に輸送作戦取り止められ夕月臨時三水戦旗艦)と水無月輸送任務終了後ラバウルには戻らずパラオ向かった以降ラバウル駆逐艦上の水上艦艇の姿を見ることはなくなった。 同20日航空部隊地上要員400名(第二航空戦隊や第751航空隊基地員や整備員)は救難曳船長浦」(速力15ノット、812トン)、輸送船興和丸」(三光汽船、1,106トン)、輸送船黄海丸」(三井船舶、3,871トン)に分乗し駆潜艇38号と駆潜特務艇48号護衛されラバウル出発パラオむかった21日夕刻ニューギニア方面から飛来しB-25双発爆撃機により輸送船2隻は撃沈され、駆潜艇38号損傷した48号生存者乗せてカビエンむかった一方日本軍水上兵力および航空兵力の衰微目の当たりにしたアメリカ海軍は、駆逐部隊ラバウルカビエンなどへの艦砲射撃行わせるようになったバーク大佐指揮下の第23駆逐部隊ハルゼー提督命令従いカビエンへの艦砲射撃ニューブリテン島周辺海上交通遮断作戦実施した2月22日午前10時頃、フレッチャー級駆逐艦5隻の第23駆逐部隊カビエン近海で「長浦」(25mm機銃2丁、定員64名、便乗者約260名)を発見し、これを撃沈した生存者日本資料14名、米軍資料75名。同日夕刻、第23駆逐部隊ラバウルから航空要員乗せてトラックに向かう途中敷設艇夏島」を発見し、これを撃沈した。この戦闘が、ソロモンおよびビスマルク諸島水域における事実上最後水上戦となった

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海戦の後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/20 03:53 UTC 版)

グレナダの海戦」の記事における「海戦の後」の解説

デスタンは艦の修繕のためにグレナダ戻りイギリス艦隊同様にセントキッツ戻ったデスタン西インド諸島海域で、その戦力優位生かす行動取れなかった。バイロン8月母国戻ったデスタン9月イギリスの支配するジョージア州サバンナ囲んだが、包囲戦失敗したその後デスタン母国戻った

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海戦の後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 16:22 UTC 版)

第二次ベララベラ海戦」の記事における「海戦の後」の解説

秋雲風雲時雨五月雨それぞれ発見したのは同じウォーカーであったが、海戦当時前者発見したのが巡洋艦群、後者発見したのが駆逐艦群と考えられていた。一つ駆逐群を別々に攻撃した結果戦果は「本隊秋雲等)により巡洋艦または大型駆逐艦2隻撃沈27駆(時雨五月雨)により駆逐艦3隻撃沈」と判定された。第27駆逐隊は「砲雷撃で轟沈1、雷撃轟沈1、いずれも大型駆逐艦」と報告した実際戦果大きくかけ離れているのは言うまでもない戦果第八艦隊外南洋部隊司令官鮫島具重中将から天皇にも報告された。鮫島は、第27駆逐隊司令原為一大佐軍刀一振時雨駆逐艦長山上三雄少佐五月雨駆逐艦長杉原与四郎少佐には短刀一本贈った夕雲生存者は、一部レンドバ島からやってきた魚雷艇救助されたが、一人夕雲乗員が艇上で乱闘起こした末に見張り兵を殺害したため、復讐の意味皆殺しにされた。他方機関部員を中心とする25名は途中アメリカ軍放置していった内火艇分捕った。やがて魚雷艇接近して移乗するよう命じられる夕雲生存者拒否すると、アメリカ軍魚雷艇夕雲生存者分の食糧飲料水内火艇甲板置いて去っていった。内火艇1日経ってからブイン到着し鮫島中将に「夕雲行方不明全滅聞いたが敵のボート分捕って帰るとはよくやった。御苦労」と賞賛された。 太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥後年ウォーカー隊の敗因としてウォーカー大佐雷撃回避する運動行わず射撃効果上げるために隊形針路維持し続けたことを挙げている。海戦損害は、日本側は駆逐艦1(夕雲沈没アメリカ側駆逐艦1(シュバリエ沈没と2隻(セルフリッジ、オバノン大破)で、日本軍作戦目的ベララベラ島からの撤収)を達成し海戦勝利した

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