海戦の後
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グラスゴーの乗組員は戦死1人、負傷3人の合計4人が損失だった。これは大陸海軍のお粗末な砲撃能力を示していた。被害を受けた者全員がマスケット銃によるものだった。カボーに乗っていた4人が戦死し、7人が負傷した。アルフレッドでは6人が戦死、6人が負傷した。アンドリュー・ドリアでは鼓手が1人負傷していた。 大陸会議議長のジョン・ハンコックはホプキンスの艦隊の功績を称賛したが、グラスゴーを捕まえ損なったことで、大陸会議周辺の海軍に対する反対者に批判の機会を作ってしまった。ニコラス・ビドルはこの海戦について、「これより軽率で、指揮を誤った事態は起こりえない」と記した。コロンバスの艦長エイブラハム・ウィップルは暫く噂や臆病という告発に耐えていたが、その汚名をそそぐために軍法会議を求めることになった。この航海に参加した士官で構成される陪審団によって軍法会議は5月6日に開催され、ウィップルは臆病の罪を晴らしたが、判断ミスについては批判された。プロビデンスの艦長ジョン・ハザードはそれほど幸運ではなかった。グラスゴーとの戦闘中に任務怠慢だったことなど、部下から様々な罪を告発され、軍法会議で有罪となり、その任官を辞めさせられた。 ホプキンス代将はこの海戦と関連が無いことで大陸会議の査問を受けた。バージニアやカロライナに行く代わりにナッソーに航海したことで文書による命令に違反しており、コネチカットやロードアイランドへの航海中に得た戦利品を大陸会議への相談無しに配分していた。ホプキンスはこれらの罪にたいして問責され、艦隊が二度と航海できなくなったことなど更なる議論が続いた後の1778年1月に海軍から罷免された。艦隊の多くの艦船は乗組員不足に陥り、イギリス軍が1776年遅くにニューポートを占領したことで、艦隊はロードアイランドのプロビデンスに閉じこめられてしまった。 グラスゴーはこの海戦で損傷を受け、任務を捨ててニューポートに戻った。その船体は非常に傷んでいたので、航海に耐えられるほどまで修理して、修繕のために本国のポーツマスまで送られた。その任務はニューポート戦隊の別の艦船HMSノーティラスに渡された。
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海戦の後
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「USSコンスティチューション対HMSゲリエール」の記事における「海戦の後」の解説
デイカーズ艦長は護衛されてコンスティチューションに移った。ハルはデイカーズの降伏の剣の受け取りを断り、あれほど勇敢に戦った者から剣を受け取れないと語った。またデイカーズの母の聖書を戻すよう命令もした。ゲリエールは明らかに沈みつつあり。負傷者がコンスティチューションに運ばれた。ハルはゲリエールで強制徴用されていたアメリカ人10人を見出したが、デイカーズは彼らに母国の者と闘う代わりに甲板下に留まっていることを認めていた。 ハルはゲリエールを戦利品として曳航していくことを望んだ。夜の間は、コンスティチューションがゲリエールの傍に付き添ったが、夜明けになるとゲリエールは最早助からないことが明白になった。捕虜とアメリカ兵の救難隊がコンスティチューションに移り、午後3時にゲリエールに火が付けられ、間もなく爆発した。 コンスティチューションは巡航を続けられたが(実質的に被害は無く、弾薬も3分の2が残っていた)、ハルはアメリカの大衆に勝利の報せを持ち込みたいと考えた。10日後にボストンに到着し、その知らせは(200名以上の捕虜という明白な証拠と共に)歓喜を引き起こした。ゲリエールはアメリカの商船を停船させ捜索することで、イギリス海軍の最も活動的な艦の1つだったので、これを破ったという知らせは特にアメリカの船乗り社会で満足のいくものだった。皮肉にもハルが再度戦闘の指揮を執ることは無かった。ゲリエールを破った日の3日前に、その伯父であるウィリアム・ハル将軍が、はるかに勢力に劣るイギリス軍にシェルビー砦を降伏させていた(デトロイト包囲戦)。アイザック・ハルにとってもう1つの不幸はその兄弟の死であり、その残された未亡人と子供たちには、ハルが面倒を見る義務が生じていた。ハルはその新しい責任に対応する良い任務を求めて、海軍長官のハミルトンにウィリアム・ベインブリッジ大佐と指揮官を交替できるかを尋ねた。ハルはベインブリッジの下でバーバリ戦争を戦っており、ベインブリッジは当時ボストン海軍工廠の指揮官だった。ハミルトンがこれに同意し、1812年9月15日、ハルは海軍基地の、ベインブリッジはコンスティチューションの指揮官に就いた。 デイカーズは捕虜交換で釈放されてハリファックスに戻ると軍法会議に掛けられた。これは如何なる理由でもイギリス海軍の艦を失った場合の慣習だった。デイカーズは、ゲリエールが元々フランスで建造されたものであり、1806年にイギリス海軍に捕獲されたこと、それ故にイギリス製の艦ほど頑丈ではなかったこと、さらに重要なことは、ゲリエールがかなり老朽化しており、当時は艤装をやり直すためにハリファックスに向かっていたこと、戦闘の初期にミズンマストが倒れてゲリエールの操艦を難しくしたこと、それは戦闘で受けた損傷と同じくらい腐食していたことという事実を申し立てた。デイカーズと水兵達が最善を尽くしたというような示唆や、デイカーズはコンスティチューションと闘うほど軽率だったというような示唆は無かった。米英戦争の初期ではイギリス海軍の大砲38門搭載フリゲート艦が、如何なる国の大砲44門搭載フリゲート艦と交戦することが認められていた。これらによってデイカーズは無罪となった。
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海戦の後
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「セント・ジョージ岬沖海戦」の記事における「海戦の後」の解説
この戦闘で日本側は「大型駆逐艦一隻轟沈 魚雷艇二隻撃沈一隻撃破」などの戦果を報じたが、実際の戦果はゼロだった。日本軍潜水艦が遭難艦乗員の救助にあたり、伊号第一七七潜水艦(伊177)は夕霧の乗員および便乗者278名を、伊号第一八一潜水艦(伊181)は同じく11名を救助した。これとは別に、巻波乗員のうち28名は11月29日、カッターでニューブリテン島沿岸ズンゲン地区に漂着して救助された。それ以外、大波の乗員は駆逐艦長吉川潔中佐以下全員が戦死し、夕霧は駆逐艦長尾辻秀一少佐以下155名と便乗者129名が戦死した。戦死した吉川中佐はこれまでの戦功が評価され、二階級特進して少将に任ぜられた。バーク大佐は後年、「燃料補給があと15分遅れていたら。この海戦は生起しなかったであろう」と回想している。一方、駆逐隊司令仲間では「暗号が解読されていた」との噂が流れていた。 日本側の制海権喪失により、方面軍はブカ島への輸送を中止するに至った。この海戦以後、駆逐艦による輸送作戦はアドミラルティ諸島や従前から行われていたニューブリテン島へのものに限られるようになった。ブーゲンビル島で死闘を続ける日本陸軍は、さらに苦しい戦いを強いられた。また一連の輸送作戦には、ラバウル航空隊から派遣された戦闘機が護衛に就いていた。しかし、1944年に入る前後からラバウルの燃料不足が深刻となり、一時は駆逐艦をトラック諸島に全て引き揚げさせ、2月17日ごろには再びラバウルに揃って進出させる予定だった。ところが、その2月17日から18日にかけてトラック島空襲があり、同島配備の航空機は大損害をうける。この被害や中部太平洋方面の戦局を考慮した連合艦隊は、ラバウル所在の第十一航空艦隊(司令長官草鹿任一中将/南東方面艦隊長官兼任)に対し、トラックに航空戦力を集中するよう命令した。ラバウル航空隊は事実上その幕を閉じてトラックに撤退する事となった。第三水雷戦隊司令部は航空援護なき輸送作戦は困難との判断に達し、2月20日に行われた睦月型駆逐艦夕月と姉妹艦水無月によるガブブ地区への輸送を最後に輸送作戦は取り止められ、夕月(臨時の三水戦旗艦)と水無月も輸送任務終了後はラバウルには戻らずパラオに向かった。以降、ラバウルに駆逐艦以上の水上艦艇の姿を見ることはなくなった。 同20日、航空部隊地上要員約400名(第二航空戦隊や第751航空隊の基地員や整備員)は救難曳船「長浦」(速力15ノット、812トン)、輸送船「興和丸」(三光汽船、1,106トン)、輸送船「黄海丸」(三井船舶、3,871トン)に分乗し、駆潜艇38号と駆潜特務艇48号に護衛されてラバウルを出発、パラオにむかった。21日夕刻、ニューギニア方面から飛来したB-25双発爆撃機により輸送船2隻は撃沈され、駆潜艇38号も損傷した。48号は生存者を乗せてカビエンにむかった。一方、日本軍の水上兵力および航空兵力の衰微を目の当たりにしたアメリカ海軍は、駆逐部隊にラバウルやカビエンなどへの艦砲射撃を行わせるようになった。バーク大佐指揮下の第23駆逐部隊はハルゼー提督の命令に従い、カビエンへの艦砲射撃やニューブリテン島周辺の海上交通遮断作戦を実施した。2月22日午前10時頃、フレッチャー級駆逐艦5隻の第23駆逐部隊はカビエン近海で「長浦」(25mm機銃2丁、定員64名、便乗者約260名)を発見し、これを撃沈した。生存者は日本側資料14名、米軍資料75名。同日夕刻、第23駆逐部隊はラバウルから航空要員を乗せてトラックに向かう途中の敷設艇「夏島」を発見し、これを撃沈した。この戦闘が、ソロモンおよびビスマルク諸島水域における事実上最後の水上戦闘となった。
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海戦の後
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デスタンは艦の修繕のためにグレナダに戻り、イギリス艦隊も同様にセントキッツに戻った。デスタンは西インド諸島海域で、その戦力的優位を生かす行動が取れなかった。バイロンは8月に母国に戻った。デスタンは9月にイギリスの支配するジョージア州サバンナを囲んだが、包囲戦は失敗した。その後デスタンも母国に戻った。
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海戦の後
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「第二次ベララベラ海戦」の記事における「海戦の後」の解説
秋雲と風雲、時雨と五月雨がそれぞれ発見したのは同じウォーカー隊であったが、海戦当時は前者が発見したのが巡洋艦群、後者が発見したのが駆逐艦群と考えられていた。一つの駆逐群を別々に攻撃した結果、戦果は「本隊(秋雲等)により巡洋艦または大型駆逐艦2隻撃沈、27駆(時雨、五月雨)により駆逐艦3隻撃沈」と判定された。第27駆逐隊は「砲雷撃で轟沈1、雷撃で轟沈1、いずれも大型駆逐艦」と報告した。実際の戦果と大きくかけ離れているのは言うまでもない。戦果は第八艦隊(外南洋部隊)司令官鮫島具重中将から天皇にも報告された。鮫島は、第27駆逐隊司令原為一大佐に軍刀一振、時雨駆逐艦長山上亀三雄少佐と五月雨駆逐艦長杉原与四郎少佐には短刀一本を贈った。 夕雲の生存者は、一部はレンドバ島からやってきた魚雷艇に救助されたが、一人の夕雲乗員が艇上で乱闘を起こした末に見張り兵を殺害したため、復讐の意味で皆殺しにされた。他方、機関部員を中心とする25名は途中、アメリカ軍が放置していった内火艇を分捕った。やがて魚雷艇が接近して移乗するよう命じられる。夕雲生存者が拒否すると、アメリカ軍魚雷艇は夕雲生存者分の食糧と飲料水を内火艇の甲板に置いて去っていった。内火艇は1日半経ってからブインに到着し、鮫島中将に「夕雲は行方不明、全滅と聞いたが敵のボートを分捕って帰るとはよくやった。御苦労」と賞賛された。 太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は後年、ウォーカー隊の敗因としてウォーカー大佐が雷撃を回避する運動を行わず、射撃効果を上げるために隊形と針路を維持し続けたことを挙げている。海戦の損害は、日本側は駆逐艦1(夕雲)沈没/アメリカ側駆逐艦1(シュバリエ)沈没と2隻(セルフリッジ、オバノン大破)で、日本軍は作戦目的(ベララベラ島からの撤収)を達成し、海戦に勝利した。
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