海戦の背景とは? わかりやすく解説

海戦の背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:04 UTC 版)

スラバヤ沖海戦」の記事における「海戦の背景」の解説

太平洋戦争勃発と共に日本海軍マレー沖海戦イギリス東洋艦隊主力戦艦プリンス・オブ・ウェールズレパルス撃沈し東南アジア方面最大脅威排除した日本軍フィリピン占領すると、つづいて資源地帯であるオランダ領インドネシア占領目標とし、3つの進撃路を準備したアジア大陸沿いにシンガポール目指すルートと、ボルネオ島経由して南進スマトラ島へ至るルート、さらにフィリピンダバオからスラウェシ島両岸マカッサル海峡モルッカ海峡経て最終的にジャワ島占領するルートである。 1942年昭和17年2月になると、日本軍ジャワ島占領目的として行動開始した陸軍の上船団とその護衛艦隊として、南方部隊南方部隊指揮官/第二艦隊司令長官近藤信竹旗艦愛宕」)麾下部隊投入される日本軍攻略船団東西分かれて進撃することになった西部ジャワ攻略部隊第十六軍司令官今村均陸軍中将)はジャワ島西部バタビアにむけ進軍し東部ジャワ攻略部隊として第十四軍隷下の第48師団坂口支隊輸送船40隻に分乗してジャワ島東部スラバヤ目指した。ジャワ島南方海面には南方部隊指揮官/第二艦隊司令長官近藤信竹海軍中将南方部隊本隊旗艦愛宕」)と南雲機動部隊進出し脱出しようとする連合軍艦艇掃蕩をおこなっていた。 東部ジャワ攻略部隊護衛するのは、蘭印部隊蘭印部隊指揮官/第三艦隊司令長官高橋伊望海軍中将旗艦足柄麾下の、第二水雷戦隊第四水雷戦隊第五戦隊第四航空戦隊第十航空戦隊等であった東部ジャワ攻略部隊は、第一護衛隊指揮官/第四水雷戦隊司令官西村祥治海軍少将軽巡那珂駆逐艦8、掃海艇5、駆潜艇5、他3)も含めると、約60隻に及ぶ大規模な船団であった。これらはスラバヤ西方のクラガン海岸上陸目標としてマカッサル海峡南下ジャワ海航行していた。バリ島攻略作戦チモール攻略作戦従事していた主隊(足柄山風江風)、東方支援隊(那智羽黒、曙)、第二護衛隊指揮官/第二水雷戦隊司令官田中頼三海軍少将軽巡神通、第16駆逐隊、第7駆逐隊第1小隊〈潮、漣〉)、妙高等も漸次輸送船団護衛加わったベトナムサンジャック待機中だった馬来部隊馬来部隊指揮官/第一南遣艦隊司令長官小沢治三郎海軍中将麾下第四航空戦隊司令官角田覚治少将空母龍驤)と第七戦隊司令官栗田健男少将最上型重巡洋艦4隻)は、27日になってから南方部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官より蘭印部隊編入バタビア方面作戦協力命じられる龍驤27日午後に急遽出動したが、28日までの戦闘には間に合わなかった。 対す連合国軍日本軍の進撃阻止すべくアメリカAmerican)・イギリスBritish)・オランダDutch)・オーストラリア(Australian)の各国軍で構成されABDA司令部設置しジャワオーストラリア防衛のため艦隊再編したトーマス・C・ハート米海軍大将アジア艦隊司令長官)はカレル・ドールマン少将司令長官とするABDA艦隊編成する。しかし以後作戦中に各国海軍共通の信号用符号制定する時間的余裕がなかった為、指揮系統脆弱であった母国ナチス・ドイツ占領されオランダにとって、極東植民地最後拠点であったオランダ亡命政府アメリカ軍極東防衛に真剣でないと判断しアメリカ人ハート大将を解任し、オランダ人コンラッド・ヘルフリッヒ英語版中将東インド諸島出身)を司令官とする人事連合軍に行わせている。しかし、既にシンガポールの戦いシンガポール陥落大規模海軍基地失ったことで、連合軍損傷艦修理補給難しい状態になっていた。その上ジャワ沖海戦バリ島沖海戦などの小規模海戦連合軍損傷艦続出する。たとえば重巡ヒューストン損傷により前部砲塔6門しか使用できなかった。さらに連合軍にとっての痛撃は、オーストラリアからジャワ島に至る戦闘機中継基地ティモール島占領されくわえて2月19日南雲機動部隊ポートダーウィン空襲により北部豪州要港ダーウィン大打撃を受け、ジャワオーストラリア連絡線遮断された事であった。 この時点でABDA連合は、既に現有戦力ではジャワ防衛不可能と判断して撤退始めていた。2月21日アーチボルド・ウェーヴェル大将イギリスウィンストン・チャーチル首相にジャワ防衛絶望的であると報告した2月25日時点でウェーヴェル将軍ジャワ去ったジャワにはドールマン少将指揮艦隊の他はアメリカオーストラリア少数航空機残されているのみで、ABDA司令部主だったメンバーは既にセイロンオーストラリアへ脱出しており、残っているのはオランダ軍だけであった

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海戦の背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 08:43 UTC 版)

露梁海戦」の記事における「海戦の背景」の解説

慶長3年1598年)、日本軍最左翼要衝である順天城守備小西行長らは南下してきた明・朝鮮軍の9月19日から10月4日にわたる陸海からの攻撃退け10月9日には明・朝水軍拠点であった古今島退いた順天城の戦い)。その後豊臣秀吉死去に伴う帰国方針朝鮮在陣の日本軍伝えられ釜山撤退することとなった小西行長は明将劉綎交渉して無事に撤退することで合意成立し11月10日船団仕立てて退去図った。ところが、このころ日本軍帰国内情明・朝水軍も知るところとなっており、順天城退去直前和議覆す形で光陽湾に再進出して日本軍退路遮断したこのため小西行長らは順天城へ引き返さざるを得なくなった。 既に撤退のため巨済島集結終えていた島津義弘宗義智立花宗茂当時名乗りは親成)、高橋直次小早川秀包筑紫広門(上野介広門の子主水正広門。当時名乗りは茂成)らの左軍諸将撤退差配出向いていた寺沢広高(正成)はそれを知り急遽五百隻(三百隻とも言う)の兵船仕立て救援のため17日の夜、順天へと向かった。これを知った明・朝水軍迎撃するため封鎖解き津へと東進した。

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海戦の背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 03:12 UTC 版)

閑山島海戦」の記事における「海戦の背景」の解説

文禄元年1592年4月釜山上陸以来見るべき抵抗無かった朝鮮南岸対し侵攻作戦こそ無いものの策源地釜山中心に番外の所隊が支配領域拡大のために展開をしていた。5月に入ると、これらの部隊海上移動にあたっていた海運部隊李舜臣中心とする朝鮮水軍襲撃受けた

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