海戦の背景
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太平洋戦争の勃発と共に、日本海軍はマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の主力戦艦のプリンス・オブ・ウェールズ、レパルスを撃沈し、東南アジア方面の最大の脅威を排除した。日本軍はフィリピンを占領すると、つづいて資源地帯であるオランダ領インドネシア占領を目標とし、3つの進撃路を準備した。アジア大陸沿いにシンガポールを目指すルートと、ボルネオ島を経由して南進しスマトラ島へ至るルート、さらにフィリピンダバオからスラウェシ島両岸のマカッサル海峡・モルッカ海峡を経て、最終的にジャワ島を占領するルートである。 1942年(昭和17年)2月になると、日本軍はジャワ島占領を目的として行動を開始した。陸軍の上陸船団とその護衛艦隊として、南方部隊(南方部隊指揮官/第二艦隊司令長官近藤信竹、旗艦「愛宕」)麾下の部隊が投入される。日本軍攻略船団は東西に分かれて進撃することになった。西部ジャワ攻略部隊(第十六軍、司令官今村均陸軍中将)はジャワ島西部のバタビアにむけ進軍し、東部ジャワ攻略部隊として第十四軍隷下の第48師団と坂口支隊が輸送船約40隻に分乗してジャワ島東部のスラバヤを目指した。ジャワ島南方海面には南方部隊指揮官/第二艦隊司令長官近藤信竹海軍中将の南方部隊本隊(旗艦「愛宕」)と南雲機動部隊が進出し、脱出しようとする連合軍艦艇の掃蕩をおこなっていた。 東部ジャワ攻略部隊を護衛するのは、蘭印部隊(蘭印部隊指揮官/第三艦隊司令長官高橋伊望海軍中将、旗艦「足柄)麾下の、第二水雷戦隊、第四水雷戦隊、第五戦隊、第四航空戦隊、第十一航空戦隊等であった。東部ジャワ攻略部隊は、第一護衛隊(指揮官/第四水雷戦隊司令官西村祥治海軍少将:軽巡那珂、駆逐艦8、掃海艇5、駆潜艇5、他3)も含めると、約60隻に及ぶ大規模な船団であった。これらはスラバヤ西方のクラガン海岸を上陸目標としてマカッサル海峡を南下、ジャワ海を航行していた。バリ島攻略作戦やチモール攻略作戦に従事していた主隊(足柄、山風、江風)、東方支援隊(那智、羽黒、雷、曙)、第二護衛隊(指揮官/第二水雷戦隊司令官田中頼三海軍少将、軽巡神通、第16駆逐隊、第7駆逐隊第1小隊〈潮、漣〉)、妙高等も漸次輸送船団護衛に加わった。 ベトナムのサンジャックに待機中だった馬来部隊(馬来部隊指揮官/第一南遣艦隊司令長官小沢治三郎海軍中将)麾下の第四航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母龍驤)と第七戦隊(司令官栗田健男少将:最上型重巡洋艦4隻)は、27日朝になってから南方部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官より蘭印部隊編入とバタビア方面作戦協力を命じられる。龍驤も27日午後に急遽出動したが、28日までの戦闘には間に合わなかった。 対する連合国軍は日本軍の進撃を阻止すべくアメリカ(American)・イギリス(British)・オランダ(Dutch)・オーストラリア(Australian)の各国軍で構成されたABDA司令部を設置し、ジャワやオーストラリアの防衛のため艦隊を再編した。トーマス・C・ハート(米海軍大将・アジア艦隊司令長官)はカレル・ドールマン少将を司令長官とするABDA艦隊を編成する。しかし以後の作戦中に各国海軍共通の信号用符号を制定する時間的余裕がなかった為、指揮系統は脆弱であった。 母国をナチス・ドイツに占領されたオランダにとって、極東の植民地は最後の拠点であった。オランダ亡命政府はアメリカ軍が極東の防衛に真剣でないと判断し、アメリカ人のハート大将を解任し、オランダ人のコンラッド・ヘルフリッヒ(英語版)中将(東インド諸島出身)を司令官とする人事を連合軍に行わせている。しかし、既にシンガポールの戦いでシンガポールは陥落。大規模海軍基地を失ったことで、連合軍は損傷艦の修理や補給も難しい状態になっていた。その上、ジャワ沖海戦やバリ島沖海戦などの小規模海戦で連合軍に損傷艦が続出する。たとえば重巡ヒューストンは損傷により前部砲塔6門しか使用できなかった。さらに連合軍にとっての痛撃は、オーストラリアからジャワ島に至る戦闘機中継基地ティモール島を占領され、くわえて2月19日の南雲機動部隊のポートダーウィン空襲により北部豪州主要港のダーウィンが大打撃を受け、ジャワとオーストラリアの連絡線が遮断された事であった。 この時点でABDA連合は、既に現有戦力ではジャワの防衛は不可能と判断して撤退を始めていた。2月21日、アーチボルド・ウェーヴェル大将はイギリスのウィンストン・チャーチル首相に、ジャワの防衛が絶望的であると報告した。2月25日の時点でウェーヴェル将軍はジャワを去った。ジャワにはドールマン少将指揮の艦隊の他はアメリカ、オーストラリアの少数の航空機が残されているのみで、ABDA司令部の主だったメンバーは既にセイロンやオーストラリアへ脱出しており、残っているのはオランダ軍だけであった。
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海戦の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 08:43 UTC 版)
慶長3年(1598年)、日本軍最左翼の要衝である順天城守備の小西行長らは南下してきた明・朝鮮軍の9月19日から10月4日にわたる陸海からの攻撃を退け、10月9日には明・朝鮮水軍も拠点であった古今島へ退いた(順天城の戦い)。その後、豊臣秀吉死去に伴う帰国方針が朝鮮在陣の日本軍に伝えられ釜山へ撤退することとなった。小西行長は明将劉綎と交渉して無事に撤退することで合意が成立し、11月10日、船団を仕立てて退去を図った。ところが、このころ日本軍帰国の内情は明・朝鮮水軍も知るところとなっており、順天城退去の直前に和議を覆す形で光陽湾に再進出して日本軍の退路を遮断した。このため小西行長らは順天城へ引き返さざるを得なくなった。 既に撤退のため巨済島に集結を終えていた島津義弘、宗義智、立花宗茂(当時の名乗りは親成)、高橋直次、小早川秀包、筑紫広門(上野介広門の子・主水正広門。当時の名乗りは茂成)らの左軍諸将や撤退の差配に出向いていた寺沢広高(正成)はそれを知り、急遽五百隻(三百隻とも言う)の兵船を仕立て、救援のため17日の夜、順天へと向かった。これを知った明・朝鮮水軍も迎撃するため封鎖を解き露梁津へと東進した。
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海戦の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 03:12 UTC 版)
文禄元年(1592年)4月の釜山上陸以来、見るべき抵抗の無かった朝鮮南岸に対し、侵攻作戦こそ無いものの策源地の釜山を中心に番外の所隊が支配領域拡大のために展開をしていた。5月に入ると、これらの部隊の海上移動にあたっていた海運部隊が李舜臣を中心とする朝鮮水軍の襲撃を受けた。
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