オランダ亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 06:35 UTC 版)
1933年1月30日、ナチ党の党首アドルフ・ヒトラーがドイツ首相に任命された。オットーはこの時のことを次のように回顧している。「1月30日、私たちはさる友人の家に招かれていました。みんなでテーブルを囲い、ラジオを聞いていたのですが、最初に流れてきたニュースはヒトラーが首相に就任したというものでした。(略)最後にヒトラーがあの有名な『4年間だけ任せてほしい』という演説をしたんですが、それを聞くとその家の主人が上機嫌に行ったんです。『だったら、やらせてみようじゃないか。チャンスを与えてやろうよ』って。私は二の句が継げませんでしたし、家内はまるで石になったように座っていましたよ」。 同年のフランクフルト市議会選挙もナチ党が圧勝し、フランクフルト市庁舎ではハーケンクロイツが壁いっぱいに掲げられ、ナチ党員が集まって「ユダヤ人は出ていけ」と叫んで気勢をあげた。これ以上ドイツに留まるのは危険と考えたオットーは家族をより安全な国に逃がそうと決めた。スイスにいる義弟エーリヒ・エリーアス(ジャム作りに使うペクチンを製造する業者『ポモジン工業(Pomosin)』の子会社『オペクタ商会』のスイス支社長)は、オットーにアムステルダムに亡命して『オペクタ商会(英語版)』のアムステルダム支社を起こさないかと薦めた。 オットーはかつてアムステルダムで暮らしていた事があり、ある程度の人脈があったこと、またオランダが比較的難民に寛大であることなどを考慮してこの申し出をありがたく受けることとした。1933年夏に故国ドイツを離れ、まず仕事と住居を安定させるため、単身アムステルダム市へと移住した(その間エーディトや娘達はアーヘンのエーディトの実家で暮らしていた)。 ここで『ポモジン工業』の子会社としての『オペクタ商会』を開設するはずだったが、取締役に指定した人物との間に問題が生じたので、結局、オットーはエーリヒ・エリーアスから1万5000ギルダーの無利子貸付を受けて自ら会社を起こすことにした。「ペクチンをもっぱらケルンの『オペクタ商会』からのみから買い付け、『ポモジン工業』に利益の2.5%を支払う」という契約で代わりに『オペクタ商会』の商標を使う権利をもらい、『ポモジン工業』の子会社ではない『オペクタ商会』を経営することになった。 オットーは仕事の合間を縫って一家の居住先も探した。エーディトもアーヘンとアムステルダムを行き来して夫の住居探しを手伝った。オットーたちはアムステルダム・ザウト(オランダ語版)のメルヴェデプレイン(オランダ語版)37番地に一家四人で暮らすのにちょうどいい賃貸アパートを見つけ、入居する。1933年12月にまずエーディトとマルゴット、続いて1934年2月にはアンネもそこへ移住していった。
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