オランダ人による普羅民遮城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 21:01 UTC 版)
「赤崁楼」の記事における「オランダ人による普羅民遮城」の解説
1624年、澎湖を拠点に明と争っていたオランダと明の間に講和が成立し、オランダは澎湖の経営を放棄し、その代替地として台湾南部に上陸し商館や砲台を築城した。台江西岸の一鯤鯓沙洲(今の安平)には「ゼーランディア」(Zeelandia、熱蘭遮城、現・安平古堡)が築城され、台湾統治の中心となり、城砦東側には「台湾街」(現在の延平街一帯)と「普羅民遮街」(現在の民権路)が建築された。前者は台湾で最も繁栄した商業地として「台湾第一街」と呼ばれるようになり、校舎は台湾で初めて計画されたヨーロッパ式都市計画であった。 オランダ人による台湾統治では漢族移民や平埔族に対し厳しい統治方式を採用した。そのため漢人の不満が爆発、1652年には「郭懷一事件」が発生した。この事件は間もなく鎮圧されたが、オランダ人は事件の再発を防止するために「普羅民遮街」の北方建に「プロヴィンティア」を建築した。周囲約141m、城壁高さ10.5mの城砦には水源が確保され、食料が備蓄されるなど、有事の際の防衛拠点都として準備され、漢人はこの城砦を赤崁楼或いは紅毛楼と称した。
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