オランダ人の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 05:09 UTC 版)
1596年、第三の勢力、オランダ人がジャワに到達した。ポルトガル人も香辛料貿易を独占しようとしたが、交易拠点の支配で満足した彼らと異なり、オランダ人は栽培地に至るまで占拠して面的に支配地を拡大し、栽培地を監視し、香辛料を生み出す樹木が持ち出されないよう、さらに、栽培区域外で若芽を発見した場合は、有無を言わさず焼き払った。 1605年にアンボイナ占領し、1619年、最大港市だったジャワに総督を置き、バタヴィアを建設する。1621年、バンダ島民を虐殺。1623年、進出して来た第四の勢力イギリスの商館を襲い、やはり虐殺した。イギリスは150年以上、東南アジア島嶼部の植民地化から排除された。 1641年にはポルトガルからマラッカを奪い、北に向かっては1623年にポンフー諸島、1624年から1661年にかけて台湾を占領し、東南アジア島嶼部はフィリピンを抑えたスペイン、東部に押しやられたポルトガルを除き、オランダ以外の勢力が拡大する可能性がなくなった。オランダが支配する地域はごく僅かな点に過ぎず、大部分の土地はオランダ人はおろか、元々の都市国家の支配も受けない無人の地ではあったが。 オランダの拡張は、この後非常にゆっくりとしたテンポで進んで行く。1699年にジャワにコーヒーを持ち込み、貿易で高い利潤を上げることに成功。1758年、オランダはようやくジャワ島の植民地化を完了。しかしながら、オランダ東インド会社は、本国政府の監督下にはなく、経営状態は未公開であり、経営陣の私物化が著しかった。このため、独占的に輸出できる商品作物があったにもかかわらず、収支は大幅な赤字となっていた。ナポレオンにより、オランダに共和政府が誕生すると、まっさきに旧態依然としたオランダ領東インド会社がやり玉に上がる。1799年には会社が解散させられてしまった。 会社に代わり、植民地政府が成立すると、植民地自体で財政を黒字化することを求められた。このため、最終的に強制栽培制度に到る現地の首長を間接的に利用した支配を固めていく。 オランダは利益が上がる地域から、首長間の紛争や後継者争いに乗じて、じわじわと勢力範囲をのばして行った。オランダの戦力は地元の首長の戦力の合計より少ないことも多く、間接的な方法を使う必要があったからだ。 1848年、ようやくバリ島を征服。1849年、チモール島をポルトガルとの間で分割。1872年、スマトラ島の征服をほぼ完了し、イギリスと不干渉条約(スマトラ条約)を結ぶ。1873年から1904年、最後まで抵抗していたスマトラ島最北部のアチェ王国を攻略する。同年、オランダ領東インドが成立した。オランダは利益につながらない占領には興味がなく、他に競合するヨーロッパ諸国もなかったため、ボルネオ島の占領、開発に乗り出すことはなかった。
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