1826年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 03:01 UTC 版)
近代のシンガポールが創設されたのは1819年2月6日のことである。創設したのはイギリス東インド会社の役員にしてベンクーレン副知事のサー・スタンフォード・ラッフルズであり、東洋での交易に対するオランダ人の支配への対抗を企図したものであった。ジョホールのスルタンとジョホールのトゥムングンから東インド会社に対するシンガポールへの「工場」の設置の許可が得られたのが同日であったというものであり、シンガポールの完全な譲渡が行われたのは1824年のことである。イギリスによるシンガポールの取得前においては、シンガポールを所管するマレー人の首長はジョホールのトゥムングンであったとされている。ジョホール王国はマラッカ王国の後継国であり、いずれも自身の法典を有していた。また、アダット法(しばしば不適切にも「慣習法」と訳されることがある。)もまた、イギリスによる取得前はシンガポールの住民に適用されていたかもしれない。しかしながら、実際にどのような法が適用されていたのかは、全くといっていいほど不明である。イギリス人は、シンガポールの取得時においては同島においてはいかなる法も実施されていなかったものとみなしてきた。 1823年にラッフルズはシンガポールの管理のための「規則」(Regulations)を発布した。1823年1月20日規則3によって、「イギリス国旗の下に頼る全ての種類の人々」を管轄する治安判事職を置いた。治安判事は、「現地の状況が許す限り、イギリスの治安判事のやり方に従い、技術的事項や無用な方式を可能な限り排除し、最大限の判断力および良心ならびに実質的正義の原則に従って、平静さと裁量をもってその職の任務を執行する」ことができた。ラッフルズは、その規則を制定する法的権限の範囲を逸脱して行動していたため、その規則はおそらくほとんど違法であった。ラッフルズは、ベンクーレンの管轄下においてシンガポールに工場を設置する権限は有していたが、シンガポール全体をベンクーレンの支配下に置く権限は与えられていなかったのである。この点、ラッフルズによるシンガポールの取扱いは、まるで、スルタンとトゥムングンとの間の条約が工場の設置を許可しただけでシンガポール全体がイギリスに割譲されたかのようであった.。 同年、ラッフルズはジョン・クローファード(John Crawfurd)をシンガポール理事官(Resident)に選任した。クローファードはラッフルズにより設置された司法制度の合法性に疑問を抱き、賭博をした者に対する鞭打ちや彼らの財産の差押えを命じた治安判事らの手続を無効化した。クローファードは結果として治安判事職を廃止し、代わりに、理事官補佐(Assistant Resident)が監督し小規模の民事事件を取り扱う請願裁判所(Court of Requests)と、その他全ての事件を管轄し彼自身が統轄する理事官裁判所(Resident's Court)を置いた。クローファードは、適用すべき法について何らの権威のある指針を有していなかったため、「イングランド法の一般原則」に基づいて、可能な限り現地住民の「異なる階級の特徴と慣習」を考慮しつつ裁判を行った。不幸なことに、クローファードの裁判所もまた法的基礎を欠いたため、シンガポール所在のヨーロッパ人に対しては何らの法的権限をも有していなかった。イギリス臣民に関わる重大な事件はカルカッタの判断を仰がねばならなかった。そうでない場合には、彼がなし得たことは彼らをシンガポールから追放することだけであった。 ラッフルズとクローファードによって設置されたシンガポールの裁判所の法的地位には疑いがあったものの、事実上の状態として、1819年から1826年まではイングランド法の原則がシンガポールに適用されていたことになる。 1824年6月24日、1824年シンガポールの東インド会社への移転等法(Transfer of Singapore to East India Company, etc. Act 1824)により、シンガポールおよびマラッカは正式に東インド会社に移転された。1802年インドにおけるマールバラ砦法により、両地域は、同領域内の他の地域とともに、オランダからイギリスに割譲され、ベンガルのウィリアム砦(Fort William)の管区(en:Bengal Presidencyを参照。)に服することとなり、1800年インド統治法(Government of India Act 1800)に基づいて両地域はウィリアム砦の最高裁判所(Supreme Court)の管轄となった。 1825年インド給与・年金法(Indian Salaries and Pensions Act 1825)により、東インド会社は、シンガポールとマラッカをプリンス・オブ・ウェールズ島(現在のペナン)の管理下に置くことができることとなった。同社はこれを行い、海峡植民地を創設した。
※この「1826年まで」の解説は、「シンガポール法」の解説の一部です。
「1826年まで」を含む「シンガポール法」の記事については、「シンガポール法」の概要を参照ください。
- 1826年までのページへのリンク